「人情紙風船」を観る2022年08月14日 22:41

 「人情紙風船」を観る。1937年の日本映画。
 山中貞雄監督の現存するわずか3本の完全(内1作は一部損失)作品の中の1作で、日中戦争で戦病死した監督の遺作。

 貧しい長屋の風景から始まるが、冒頭は長屋の住人の浪人の自殺でスタートする。長屋の住人たちの反応はかなり冷ややかで自己中心的。現代風の人情味厚い長屋とはイメージが違う。死者に対する尊重といった感覚は皆無。大家を丸め込んで通夜の酒代をせしめ、棺桶の横で酒盛り大騒ぎ、女房たちは呆れ顔である。翌朝大家は長屋の連中にクジを引かせる。これが死者の家の掃除と棺桶運びの当番決め。なんともドライである。

 主人公の一人は不器用で堅物の浪人武士、海野又十郎。士官の伝手を死んだ親のコネでなんとかしようとするが、うまくいかない。もう一人の主人公はヤクザ者。本業は髪結いで名前は新三郎。ここまで観てはたと気づく。そう、この映画、歌舞伎の「髪結新三」を下敷きにしている。

 全編、サラッと観ることができる。だが、その細部や小道具、庶民のしたたかさ、権力と暴力と企業の癒着、貧困といったものをさり気なく見せてくる。古い作品で白飛びや音声の聞き取りにくさは致し方ないが、それでも斬新な構図や構成、雨のシーンの効果、現代ならリアルに表現するであろうが、当時は表現が難しい暴力や性的シーンの暗示の仕方のさり気なさや上品さ(なにせ死者がいても死体が登場しない)など、ストーリー以外の情報をきちんと整理しながら展開するので、よけいにわかりやすく感じる。

 さり気なく感じさせながら、計算され尽くした作品。昨今世情を騒がせている某テレビドラマの対局にあるような緻密さに裏打ちされているといっていい。ストーリーは悲劇的な結末を迎えるのだが、ラストが冒頭と重なっていて、この話の後も長屋の生活は続くのだと感じさせる。

 紙風船が堀の流れに浮いて流れるラストシーン。「人情紙風船」のタイトルは、このシーンで固定される。

「草原の実験」を観る2022年08月24日 00:10

 「草原の実験」を観る。2014年のロシア映画。アレクサンドル・コット監督作品。

 なにせ前編セリフなし。全くない。字幕の必要もない。96分、これで保たせる力技がすごい。それでも話はわかる。ベタベタと字幕を張りまくり、ぎゃあぎゃあと絶え間なく喋り続けるどこぞの国の映像作品群との格差は歴然。

 音がないわけではない。ちゃんと風の音、機械の音、自然音は流れる。地平線の続く平原。そこに住む父と娘。父がなんで生計を立てているのかは定かではないし、作品の中で明示されてもいない。そして娘。とんでもなく美人。毎日、質素な家財道具とラジオぐらいしかない家で静かに暮らし、父と古いトラックで平原の分かれ道まで送ってもらう。父は左に、娘は右に。どうやら幼馴染らしい若い男が馬に乗って彼女を学校らしいところに連れて行く。だが、そこには彼女しかいない。

 そんな平原の一軒家に、よそからやってきたちょっとチャラめの若者。娘に一目惚れした様子。彼女の写真を取り、夜彼女の家に行って彼女の写真のスライドを見せる。娘もまんざらでもない様子。

 そんなある日、父親がフラフラになって帰宅。そしてその夜、雨の中で父親が家の外に軍人から連れ出されて…

 不穏なのはこの父親の一件。だが、その一幕が一段落すると、ストーリーはよくありがちな青春三角関係(娘と幼馴染とよそ者イケメン男)へ。そして…

 原題はИспытание、英題はTest。問題はこの原題(もちろん邦題の「実験」も)である。

 こういう映画を作る国の国民がいただく政治的指導者の言動を考えると、背筋を冷たいものが走る。

「ある船頭の話」を観る2022年08月31日 22:42

 「ある船頭の話」を観る。2019年の日本映画。監督はオダギリ・ジョー。

 冒頭から、これは日本映画なのかと驚かされる。もちろん舞台は日本、それも東北から北陸の川。時代もおそらく戦前・明治大正から昭和初期といったところなのだが、まず映像が違う。日本映画のイメージとして、湿度のある、どちらかといえばウェットな映像ではない。どちらかといえばドライ、というより硬質な美しさ。こういう映像は日本映画ではあまり見ない。だが、好みだ。カメラマンはクリストファー・ドイル。なるほど、日本人の暗黙のうちのお約束を外して見たときの美しさとはこういうものなのかもしれない。

 音楽はティグラン・ハマシアン。ジャズ系といっていいのだろうか、注目のピアニストだが、これもいい。ねっとりとした情緒に訴えるのではなく、静かに、硬質に、しかし優しい音楽が映像とマッチしている。

 そして構図。冒頭からしばらくは、人間は二の次。川の様子のほんの片隅にしか人間は映し出されない。主役は川だと言わんばかりの構図がまた素晴らしい。

 榎本明の演じる船頭も、過去を抱え、隠し、地道に無欲に生きる船頭として重みがある。どうやら過去になにか(それもおそらくは暴力的な経験)を抱えているらしいが、作中では明らかにされない。そしてそんな船頭がひょんなことからすくい上げる少女。不思議な服を着て、不思議な存在である。川の中で彼女が泳ぐ姿は明らかに人外の存在と言っていいだろう。彼女も過去に何らかのものを背負っているが、これも明確には語られない。

 川の船頭は村の人を載せて川を渡らせる。金が儲かるわけでもない。そして上流には大きな橋が建設中。この橋ができれば、渡し船はおそらく忘れられてしまう。それでも船頭はそれを受け入れながら、毎日船を漕ぐ。

 ミニマルな舞台(ほとんど川の両岸を行き来するだけ)で、大きな事件が起こるわけでもない。静謐に、時と時代の流れに押し流されていく船頭の姿が描かれていく。榎本とオダギリの間に緊張があったとの情報もあるが、少なくともその緊張はこの作品ではプラスに働いている。オダギリの監督も脚本も、決して俳優の片手間ではない。誠実さと真摯さがひしひしと伝わってくる。

 台詞回しのボキャブラリーが高尚すぎると感じる点もあるが、これも船頭の過去が語られていない以上、観る側の補完も可能だし、貧しい地方の庶民を現代のボキャ貧と同じレベルで受け取るのも危険だろう。リアリズムというより、マジックリアリズムといった雰囲気の部分もある。むしろこれも日本文学の中に厳然と受け継がれている幻想文学の流れを思わせる(お偉い学者サマが作った学校文学史では、幻想文学を評価軸に入れ込むことがおできにならない貧しい学者サマのおかげで、こういう大事な流れが排除されている)。ちょっとグロンギ族のイメージを連想してしまうのは、クウガを見ていたこちらの先入観かもしれない。

 監督を色眼鏡で見てあら捜し的に鑑賞するにはあまりにもったいない。削ぎ落とされた厳しさと鋭さに裏打ちされた張り詰めるような美しさと、人と自然の在りようを象徴するような映像、そして金と便利さに溺れる人の貧しさ、浅ましさ、愚かさを、淡々と描いている。字幕まみれのバラエティや子供だましのアイドル映画ではない日本映画を久しぶりに見たような気がする。

 こういう作品、大好物である。