100年経つと…2022年10月04日 21:07

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とは言うが…

 100年前と対して変わらない世界がやってきているように思える。
時代が大きく変わって、今までの価値観が大きく崩壊していくと、自分が安住していた価値観にしがみつきたい、安らいでいたいと思う人が現れるのは仕方がないのかもしれない。

 だが、そういう人の弱みに付け込んで、壊れ去った価値観にしがみついたまま誇大妄想を膨らませている連中がいる。そういった連中が、権力といいうにはあまりに小さい権力(オヤジの威厳だの、男らしさだの)から、とんでもない権力まで、いろんな権力の副作用で権力性認知症に陥っている。

 権力性認知性は年齢に関わらず発症する。気に入らない子供をぶん殴ってみたり、思い通りに支配できない生徒をいじめてみたり、まあなんともぶざまである。いい年した大人でなくてもこの状態になるので、薄っぺらい正義感とやらで仲間をいじめたり。年齢関係なしである。

 そういった連中の中に、アジるのがうまいやつもいる。こういう奴らは自分たちが一番偉いと感じたくて仕方がない。そんな見栄を支えてくれる連中はお友達、仲間、同志、味方であり、冷静に評価して適切に是々非々を述べたやつはみんな敵である(もちろん冷静に評価すれば、誰だってそんなに偉いはずはない。自分より偉い相手もいれば、自分のほうが偉い相手だっている。どっこいどっこいといったろころが現実だろう)。
 そんな乱暴な理屈を支えるために、利用されるのがオカルトだ。

 そうやって第三帝国(ナチス政権)は生まれた。

 現代のどこかの国の話をしていたわけではない。そう読めてしまったのなら、本当に恐ろしいことだ。

民主主義ではなくて…2022年10月08日 16:38

 「センセイ」たちは票が欲しくてしようがない。

 票を持ってきてくれるなら、いつでもどこでも誰とでも仲良くなる。

 これでは「民主主義」ではない。「票主主義」だ。

 「人」ではなく「票」がすべて。これでは「票」の後ろにいるはずの実体である「人」はしらけるばかり。「人」はただの数に過ぎないのだから。

 ただの「数」にされるのなんかまっぴらだ。そんな当たり前のことを感じる人の足が投票所から遠のくのは不自然ではない。

 そして「票主主義」は票の数をかき集めることのできる集団に有利な社会を作る。「民」はその集団が手に入れた権益に縛られて支配される。そこに多様性など反映されるはずもない。

 やがて「〇〇一強」などという不自然極まりない社会が生まれる。「一強」親衛隊も発生する。ここまでくれば恣意的独裁国家まであと一歩だ。そしてそんな社会を維持するために投票を強制し、監視し、選挙が茶番化する。

 そんな流れにNoを突きつけるには、やはり票の力を使うしかない。その結果として国政が混乱するリスクを受け入れるか、それとも独裁政権による将来の国の荒廃を受け入れるか。手遅れになるとまた国土が焼け野原になるのは歴史が証明している。苦渋の選択だが、自由と平和は「不断の努力」で守るしかない。核兵器が存在する今、「焼け野原」になってやっと目を覚ますようでは本当に手遅れなのだから。

「体育嫌い」2022年10月10日 15:26

 「体育嫌い」。私は筋金入りの「体育嫌い」だ。

 「国語」も死ぬほど嫌いだった。

 「地理」も嫌い。これは「地理」という教科の意味を把握できなかった私の浅はかさが原因。「数学」は嫌いではないが苦手だった。サボったからだ。

 だからといってスポーツが(決して上手ではないが)すべて嫌いなわけではない。山に登るのも、歩くのも、自転車に乗るのも、そんなに苦にはならない。自分一人で、誰にもああだこうだ言われないのなら、運動することは決して嫌いではない。

 最近自分でも気づいたのだが、嫌いなのは「体育」ではなく、そこにすくっている「スポーツ界」である。いまだに旧弊なマチズムから抜け出せず、持つべき資質もない連中がたまたま他人に勝ったからというだけで異常な権力を持ち、暴力的で恣意的な権威を振るう。そんな体質を否定しきれない。そんなものにおもねるのはまっぴらゴメンだ。

 「国語」も似たようなもの。「日本」文学に特化した価値観と現実離れした夢幻のような価値観(いまだに「磯野家」が標準家庭だと思っている連中もいるのではないか?)で世の中を捉えている。川端は素晴らしい日本語でノーベル賞を取り、世界に日本文学を認めさせたなどと悦に入っているが、勘違いも甚だしい。ノーベル文学賞の受賞基準に「英訳されていること」という条件があるのをご存じない方が多い。日本語で「何を描いて」いるのかが重要なのに、道具にばかりこだわっているのが鼻につく。「源氏物語」は世界文学として高い名声を誇っているが、あれを世界中の人が、我々ですらおぼつかない「古文」で読まないと、正しい評価ができないというのなら、「源氏物語」の名声は返上すべきだ。

 もちろん、体育にせよ国語にせよ、そんなこまった人ばかりが教育していないことはよくわかっている。だが、こまった連中を打ち壊せていないことも事実だ。今、持久走の評価をタイムと心拍数変化の両面で行うようなことはどれぐらい一般的に行われているのだろうか(そういう先生に出会ったことが一度だけある)。文学を国語で扱う比率が下がると懸念されているが、では、現代社会ときっちり切り結ぶような、テクノロジーや世界の問題ときっちり組み合った作品を満載した「文学」教科書がどれほどあるだろうか(いまだにSF小説はクズだという先生がいると言う。カズオ・イシグロはその人にとってクズだし、それを評価したノーベル賞もクズ、その賞を取った川端や大江もクズだと豪語できそうな人がそう言えばかつていたような…)。

マイナンバーカード2022年10月13日 20:52

 マイナンバーカード、普及率が伸びない。

 平日0830〜1715の間に、本人(未成年の場合は後見人も同行)が役所に行って申請するか、受領しなくてはならない。書面やオンラインで申請すれば、受領に行かねばならないし、郵送で受領したいなら役場に申請に出向かなくてはいけない。

 郵送といっても本人限定受取郵便で送付。本人が受領するか、窓口に行かなければならない。最近は郵便局も遅くまで配達してくれるようになって頭が下がるが、交付に役所に行かねばならないのだから、根本的な問題は解決しない。

 平日の0830〜1715に、自分の住んでいる街の役場に行ける成人がどれだけいることやら。学生だってそんなに近場に住んでヒマな人ばかりではない。社会人ならなおさら。住居のある場所で就労しているという保証はまったくない。マイナンバーカード受領等の場合は休暇措置を職場は考えなければならないのだが、仕事にけりがつかないと、いくら職場が勤務体系や給与体系で受領時間や申請時間を保証したところで意味はない。おまけに「仕事が忙しい」は代理人を立てる理由にはならないとご丁寧にキャプションがついている。日々の暮らしのために忙しく働いている国民のことなど考慮されていないと言われても、反論できないだろう。それとも、職員のマイナンバーカード取得率が80%を下回る企業や教育機関には強制的に操業停止などのペナルティでもかけるぐらいの覚悟はあるのだろうか。

 運転免許証の更新だって、いまは週休日に手続きが設定されている。勤務地近傍の役所で、週休日交付あるいは時間外交付などの手当をすべきだ。数年おきに写真も取り替えなければいけないなどの有効期限まであるマイナンバーカードであればなおのこと。

 高齢者や年少者に対する配慮も不足。親子揃って役所に行かないと未成年のマイナンバーカードは取得できない。平日、子供と保護者が休みを合わせることがどれほどできるというのか。夜間の交付は絶対に必要だろう。高齢者に対しても、あまりに代理人を立てるための書類が煩雑すぎる。行政側が施設に出向くなりして交付していかない限り、物理的に取得不可能な高齢者が続出する恐れがある。

 悪用する連中を排除したいという発想はよくわかるが、そのために機能不全に陥るシステムは無意味だ。セキュリティ対策にリソースのほとんどを食われて、まともにオフィスアプリも動かなくなったPC(企業には意外とこういう役立たずをお仕着せで職員に投げ渡すところが多いらしい)で仕事をさせるのと同じで、ユーザの不満は募るばかりだ。

 私はと言えば、なんとか平日に都合をつけて受領には行ったが、マイナポイントをどうするかと言われても、住んでいる田舎では縁遠くてまったく役に立たないものばかり。「使うものがない」と、ポイント登録は放棄して帰ったのだった。