人材を育てるということ2023年05月26日 22:13

 人材を育てるということは、いろいろな遊びをたっぷりすることだ。

 ゲームだっていい。サブカルだってかまわない。いくらバカにしていた連中でも、Eスポーツでがっぽり儲かるだの、ピカチュウが外貨をしこたま仕入れているだのと聞けば、手のひらを返したようにひれ伏すのだから、勝手にバカにさせておけばよい。先見の明のないバカにバカにされたところで、痛くも痒くもない。

 遊びはズルを許さない。人を騙して抜け駆けしたり、ルールを踏みにじって一人勝ちチートをやるような連中はあっという間にはじき出される。野暮天は嫌われるから、おのずときれいな遊びが称賛される。いつまでたっても下卑た野暮天は嫌われる。公私の別も理解できないような野暮天など論外だ。

 遊びはそれ自体が遊びだ。そこに生産性だの見返りだの、タイパだのコスパだのはない。手元の金がないならないで、なんとか楽しく遊ぼうと知恵をひねる。なかなか遊ぶ暇が取りにくいから、頭をひねって遊ぶ時間をひねり出す。だからスキルは天井知らずで伸びていく。

 そして遊びは絶対に優先順位の1位には来ない。生きること、家族とともにあることより先に遊びが立つのは野暮の極致だ。遊びで身を持ち崩すようでは遊び人失格である。

 貧しい社会、貧しい企業ほど、遊べない。だからますます貧しくなる。日本も明治以降ずっとそうだった。金の話ではない。明治新政府、つまり薩長閥の貧しさがいまだにこの国には染み付いている。芭蕉の弟子が芭蕉を超えられなかったように、薩長閥は吉田松陰や坂本龍馬、西郷隆盛を超えることが、いや、その豊かさをさらに大きくすることができなかった。師やリーダーの残した資産を食いつぶすことに汲々とする貧しさは、この国を焼け野原にし、復興の裏で今に至る社会の貧困を放置した。夏目漱石はその貧しさの負のスパイラルを見事に言い当てている。

 遊ぶことは本当の豊かさにつながる。その豊かさは金ではない。人の豊かさだ。豊かな人がいるからこそ、人材が育つ。スポーツするのも進学や就職のため、文理(これも受験絡みの大人の事情が人々をしがみつかせているだけの、いまや「オワコン」だ)の選択もまた同じ。こんな紐付きのどこが遊びか。頂点に立つ人材の下には、累々と重なるこういった「野暮天」がうごめいている。

 野暮天を否定するわけではない。野暮天には通人や粋人に憧れるチャンスがある。憧れを持つ人間は必ず野暮では居続けられない。だが、こと金勘定が入ると、憧れはたちまち地に落ち、踏みつけにされ、鼻で笑われ、敬遠される。これこそが「貧しさ」、これこそが本当の「野暮天」なのだ。

 人材不足というが、それは突き詰めていけば「遊び心不足」ではないのか。「遊びじゃないんだ、真面目にやれ!」なんて言う事自体の貧しさを考えていくことが大切ではないか。

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