アナログレコードは音がよい? ― 2023年11月23日 20:04
巷ではアナログレコードは音がよいと言われているようだ。しかし、アナログレコードの音はCD以前から変わってはいない。
技術的進歩はあったにしても、今の大衆が手にするアナログレコードの再生システムは、申し訳ないが「鳴っている」レベルであって、80年代のアナログ全盛期の、ちょっとしたステレオと称する装置を持っていた音楽好きが耳にしていた音のレベルとはとても言えない。ピックアップ(カートリッジ)の性能を考えれば、80年代であってもロースペックの内に入るのは間違いない。イコライザはオペアンプやデジタル処理で精度こそ向上しているだろうが、アナログ時代でも十分な精度は出ていたわけだから、劇的な音質向上はとても考えられない。80年代のミニコンポのアナログ再生と大差ないか、あるいはそれ以下(お稽古用・あるいは学校行事用レコードプレーヤー)の再生環境と考えるべきだろう。
それでも「音がよい」というのなら、その原因はただ一つ。その他の音源の音がそれ以下であるということだ。
経済力の低い若者はYouTubeから流れてくる、ビットレートのさほど高くないmp3データを、スマホで再生して聞くのが主流だ。音源と称してYouTubeのmp4ファイルから音声のmp3を引き出す程度ということだ。Spotifyはハイレゾ対応をする気配がない。サブスクでハイレゾ配信などと謳っても、大多数の人はアクセスしない。音楽の主力消費対象である若者のうち、経済的に自立していない未成年の大半はこれらのサブスクにはアクセスしづらい。若者の多くが音楽を享受している配信においては、ただ「鳴ってる」レベルのアナログレコード以下の音質しか提供されていないということだ。
まあ、80年代エアチェック全盛期のFM放送音源は、明らかにアナログレコードに劣っていたのだから、驚くには値しない。アナログレコードの音を、攻め込んだカセットテープ録音で再生するほうが、FM放送より音質的に優位でもあった。
ただ、現代ではことはそう単純ではない。いくら忘れられつつあるとはいえ、CDの存在は無視できない。だが、クラシックはネット上では「オーオタ」と侮蔑を込めて呼ばれる愛好者層しか聞かないらしいし、ジャズもまた然り、洋楽にも触手が動かない若者層にとっては、音楽はJ-POPかK=POP辺りとなるだろう。K-POPは(なぜか反りが合わないので)コメントすることができないが、J-POPに関しては、コマーシャリズムの圧力で「音圧主義」がいまだに幅を利かせている。かつての洋楽ヒップホップでも「音圧主義」主流時代はあったし、その時のあの窒息しそうなほどの息苦しいベースビートは閉口したものだが、現在はその悪弊は影を潜め、タイトでシャープなビートで風通しがよくなった。J-POPはその変化に対応していないようで、はっきり言ってしまえばほとんどのCDは「音割れ」している(リマスターと称して旧盤をわざわざ音割れさせているものまである)。音作りもベッタリと厚塗りで、もはや威圧感としてはノイズ系ジャズと大差ない(が、ノイズ系ジャズは厚塗りでは決してない)。これではCDが先細りになるのは当然だろう。再生側がダルな再生をすれば、割れた音も厚塗り音圧でマスクしてごまかせるということか。ならばバカ正直なCDプレーヤーではなく、非可逆圧縮で音質を劣化させたmp3の配信の方が音割れ発覚リスクは少ない。
アナログレコードには音圧主義は(物理的にも難しいのだろう)あまり侵食していないようだし、中古盤にはもちろんそんな味付けはなされていない。アナログレコードだから音がよいのではない。それ以外の楽曲の音が悪すぎるのだ。音割れ音源など、商品以前の代物だと思う。
では、いまの配信を中心とした楽曲の音はダメなのかというと、一概にそうとも言えない。スマホでmp3音源の音楽を聞くにしても、「Technics audio app」で再生すると全く別次元の音楽再生が普通のスマホで体験できる(ダメな録音や音割れ音源、ドンシャリ音も素直にそのとおり、不愉快な音やドンシャリ音で再生する)。これならアナログレコードとも十分渡り合えそうだ。どうやら配信(そしてデジタル)音源の再生側には、まだまだ大きな問題が横たわっていると思われる。
アナログレコードで最低限の「いい音」を体験するのはいいことだ。我が家でも昔、80年代のアニソン(当時ヒットしたpops)を家人にシングルレコードで再生して聞かせたことがある。普段mp3音源ばかり聞いていた家人が腰を抜かさんばかりに驚いて「すごい!」と叫んだものだが、アナログ時代のごく標準的な再生音質である(当然当時のアニソンや日本のpopsの業界内での扱いを考えれば、録音もさほど高いクオリティではない)。
標準より日常が劣っていることを知れば、日常を向上させたいという機運は起きてくるのではないだろうか。正しい標準を知ることは、こと音楽だけではなく、あらゆることにつながるように思える。
便利?不幸? ― 2023年11月15日 21:55
ひょんなことから短期間で2度も入院することになってしまった。
入院期間は合計で2週間強だが、自宅療養も含めるとトータルで3週間以上の休みをとることになった。とはいえ、少々の仕事は病院からでも自宅からでもネット経由でこなせる。
これは便利で幸せなことなのか、それとも逆に不幸なことなのか。こちらは仕事を休む罪悪感から少しでも逃れられて好都合と思っていたが、他人からは「病院に入院中にも仕事をするのはいかがなものか」とも言われる。そう言われればたしかにそうだ。
「ゴジラ -1.0」を観る ― 2023年11月14日 21:08
「ゴジラ -1.0」を観る。
山崎貴監督ということで、過去の作品を思い返すと正直不安があった。なにせあの「ヤマト」をやってしまったのだから。
とはいえ、今回は東宝丸抱えコンテンツ。TV局の介入もなければ、某芸能プロダクションの介入もない。その結果かどうかはわからないが、文句なしの作品に仕上がっている。
昭和22年という設定でゴジラと対峙するにあたり、東宝お得意のパラボラ兵器やら、空飛ぶメタリックダンゴムシやら、かなり無理筋の秘密兵器(というより薬品か?)は登場しない。当時現実に存在した武器や道具で立ち向かうというところもいい。
なにより、ドラマパートが怪獣映画にありがちな取ってつけたような学芸会ドラマではないのがいい。特殊な能力をもった人間がいるわけでもなく、天才がいるわけでもない。背後に戦争を背負い、苦しんでいる等身大の人間ばかりというのは、考えてみればこれまでのゴジラ映画ではなかったような気がする。
深読みやもやもやが残る仕掛けも秀逸。何もかもスッキリチャンチャンではゴジラ映画としては残念だが、そこも抜かりない。今どきの早送り視聴・タイパ大好き世代がこのドラマパートにどれだけ対応できるのかは不安だが。描写されない「行間(画面間か?)」を想像できるかどうかがこの映画を楽しめるかどうか、正しく受容できるかどうかに影響するのは間違いない。敗戦直後という過去を観る側がどれだけ感受できるか。
そしてなんと言ってもゴジラ。サイズこそ前作シン・ゴジラより小ぶりだが、とにかく怖い。徹底して凶暴。とても人類の味方になどなりそうもない。我々は人類や地球の守り神としてのゴジラを欲しているわけではないということがよくわかる。そういう「ガメラ的ゴジラ」はアメリカに任せておこう。彼らのいう「ゴジラ」は「VSゴジラ」であって、やはり初代ではないのだろうから。
山崎貴監督ということで、過去の作品を思い返すと正直不安があった。なにせあの「ヤマト」をやってしまったのだから。
とはいえ、今回は東宝丸抱えコンテンツ。TV局の介入もなければ、某芸能プロダクションの介入もない。その結果かどうかはわからないが、文句なしの作品に仕上がっている。
昭和22年という設定でゴジラと対峙するにあたり、東宝お得意のパラボラ兵器やら、空飛ぶメタリックダンゴムシやら、かなり無理筋の秘密兵器(というより薬品か?)は登場しない。当時現実に存在した武器や道具で立ち向かうというところもいい。
なにより、ドラマパートが怪獣映画にありがちな取ってつけたような学芸会ドラマではないのがいい。特殊な能力をもった人間がいるわけでもなく、天才がいるわけでもない。背後に戦争を背負い、苦しんでいる等身大の人間ばかりというのは、考えてみればこれまでのゴジラ映画ではなかったような気がする。
深読みやもやもやが残る仕掛けも秀逸。何もかもスッキリチャンチャンではゴジラ映画としては残念だが、そこも抜かりない。今どきの早送り視聴・タイパ大好き世代がこのドラマパートにどれだけ対応できるのかは不安だが。描写されない「行間(画面間か?)」を想像できるかどうかがこの映画を楽しめるかどうか、正しく受容できるかどうかに影響するのは間違いない。敗戦直後という過去を観る側がどれだけ感受できるか。
そしてなんと言ってもゴジラ。サイズこそ前作シン・ゴジラより小ぶりだが、とにかく怖い。徹底して凶暴。とても人類の味方になどなりそうもない。我々は人類や地球の守り神としてのゴジラを欲しているわけではないということがよくわかる。そういう「ガメラ的ゴジラ」はアメリカに任せておこう。彼らのいう「ゴジラ」は「VSゴジラ」であって、やはり初代ではないのだろうから。
子供の居場所が見えない人々 ― 2023年10月19日 16:22
子供の居場所がない。妙な条例をぶち上げて総スカンを食らう議員が現れたことで、逆にそのことが浮き彫りになっている。
学童保育の職員が低賃金で集まらず、待機児童ゼロという「仮想現実」をでっち上げるために芋洗い状態の学童保育が横行する。運営側が見ているのは現実ではなく、ゲームのクリア条件ということだ。ゲーム中毒などとどの口が言うことやら。戦争下における人道支援を述べる某国の指導者と同じで、へそが茶を沸かす。
どこかの首長は不登校は親の責任だと言い放ち、義務教育にいやいや通う子供を努力して後押しするのが保護者だと言っている。よほど義務教育がお嫌いだったのだろう。だから新しい不登校の現実について「学習」し、知識を「更新」する能力も身につけていらっしゃらないらしい。義務教育が悪いのか、それともご本人の学習に対する怠慢なのか。前職が公安系だということは、ますます恐ろしい。某民放ドラマがカリカチュアライズした(有り体に言えば皮肉っておちょくった)公安系ドタバタドラマが生まれるのも宜なるかな。真面目に義務教育を全うして期待される学力を習得した多くの公安系の方々の憤懣はいかばかりのものか。
世界的にも同様だが、大人の社会というものに子供の居場所はない。その問題点に100年以上も前に気づいた海外諸国は多くの時間を費やして「子供の権利」を研究してきた(そしていまも研究している)。それでも子供は世界中のいたる所で搾取されている。経済的に、政治的に。ミニマムな権力欲と名誉欲で搾取される子どもたちは最近のこの国では「教育虐待」という文脈で表現されている。海外ではどの程度進んでいるかといえば、この国よりは幾分マシだと思われるアメリカで制作された1979年の「クレイマー・クレイマー(原題「ramer vs. Kramer」は法廷闘争を明確に打ち出しているが、邦題の「・」の方がより問題点を広く考えやすい)という映画を見ればわかる通り、社会的に称賛される仕事人間は家庭人としては失格、そして子供は明らかに仕事人間の足かせとして描かれている(もちろんそれが問題だという視点だが)。あれから40年経過したが、あの映画が過去の意味不明な作品ではなく、今でも名作と言われていることを考えれば、簡単に解決できる問題とは言えないだろう。
「大人」の世界にどっぷり浸かって「大人の社会」というVRゴーグルをはめてゲームに没頭している者に、子供の実態は絶対に見えない。そういう連中を「票」を入れる少数派(投票率は40%程度、その中で過半数51%が票を入れたとすれば、全選挙民に対する実質得票率は100*0.40*0.51=20.4%)が支えている。そして、残り80%が意思表示をする候補もまた「大人」ゲームで勝つことを求められている。異を唱えて候補になるには数百万円の供託金が必要だ。マナ不足ではゲームに参加もできない。かつてこんなゲームにうつつを抜かした結果、国を焼け野原にしたのはどこの国か。負け組の、低所得の、過疎化した地方の現実を見ずに、票の見込み数だけを見るようなことでは、利権の貪り合いとしらけしか生まれない。いまだに喫茶店のテーブルで「名古屋撃ち!」しかしていない連中を、「エルデンリング」やチラズアート、「スイカゲーム」を楽しむ若い層が相手にすると思っているのだろうか。あるいはTVゲームとは無縁の地方高齢者が正しく評価していると思っているのだろうか。そして高齢者も若者も、次第に暴力的な言動をつのらせている現実。YouTuberがゲーム攻略配信で発する暴力的罵詈雑言や、高齢者のカスハラ・パワハラ(困った高齢者はよく「お客様は神様だ(これも物故した某歌手のキャッチフレーズの受け売りに過ぎない)」というが、八百万の神がましますこの国には「貧乏神」も「疫病神」も「死神」もいらっしゃる。「汚客様」と呼ばれているうちはまだマシか)。
面従腹背は日本人のお家芸だというのがベネディクトの「菊と刀」での主張だが、堪忍袋にもそろそろ限界が来ている。過去の歴史もきちんと「いやいや通わされた」義務教育で身に着けていればいいのだが。いや、その「歴史」もしばらく前にVR化されはじめていたような…
神や仏は… ― 2023年10月14日 17:47
神は自然と似ている。
人類に多くの恵みを与える一方で、人類をとんでもなく残酷な殺戮・破壊者にもする。
神(や国)のためにと称して、人としての感情に蓋をして、どれほど多くの人が命を落とし、また奪ったか。仏であっても「僧兵」という戦国時代には無視できない武装僧侶軍団がいたことを考えれば類似点は無視できない。
神の名のもとに人の財産を剥奪し、人の自由な思考を抑圧し、他者の存在を否定し、殺戮や破壊を正当化する。戦争は常に神(あるいは国)のためのものだ。
神や仏も、人の頭が生み出したもの。人が生み出した理屈(仮想)の社会をあたかも実態があるかのように見せて他人を支配する。支配する快感は権力の快感そのものにつながる。そして権力の恣意的濫用が始まれば、もうなんでもありだ。
自然は人類の存在など一顧だにしない。それを擬人化して自分の頭の中の理屈にはめ込もうとする営みが神仏であろう。その時点で自分の世界観を安定させる快感がつきまとうのであれば、すでに危険な兆候はその時点から発生しているとも言える。
信仰は個人の内面の問題であり、他人がとやかく言う筋合いはないが、それが複数の人間に伝播するのであれば、批判的に受け取らなければならないだろう。宗教関係の人々にはにわかには受け入れがたいかもしれないが、宗教は政治や言論と本質的には同じもので、批判の対象としなくてはいけない。人の頭が生み出したものである以上。
最近のコメント