「白夫人の妖恋」を観る2023年03月01日 20:03

 「白夫人の妖恋」を観る。1956年、 豊田四郎監督作品。東宝では初の「総天然色」映画であり、香港ショウ・ブラザーズとの共同制作となっている。主役は山口淑子(李紅蘭としての活躍でも有名)、池部良、八千草薫。

 タイトルからも察しがつくが、「白蛇伝」の映画化。東映が初の長編カラーアニメ映画として制作した「白蛇伝」だが、どうやらこの作品の存在が製作のきっかけとなったらしい。

 水の特撮は今見ても迫力がある。ミニチュアやブルーバックは今の目で見ればアラが目立つものの、当時としてはかなりのものだっただろう。カラー初期の作品だが、その色彩の淡いほどの上品さは、これみよがしに色が付いていると主張する初期カラー作品とは趣が違う。「総天然色」という名前がしっくりくる。中国を舞台としているのが、当時の「総天然色」の不自然さを逆手に取っていて、日常の日本とは違うファンタジックな色調となっているのがいい。

 山口淑子の演じる「白娘」の、なんと古風で一途なことか。恋のために理性や良心も捨ててしまう恐ろしさもあるが、それでも愛する男のための命がけの恋は胸をうつ。それに引き換え池部良演ずる相手の「許仙」のヘタレっぷりがまたじれったい。根は真面目なのだが、煮えきらず、優柔不断で覚悟が定まらない。それでも白娘は許仙にベタ惚れ。白娘の侍女として仕えている、これまた魔性の娘、八千草薫演ずる「小青」はいかにも現代っ子。白娘の情念が彼女には理解できない。

 それでも許仙は最後の最後にふっ切れたように覚悟を据える。迷いに迷った男がやっとまごころの愛を理解し、受け入れる。ヘタレで未熟な男が、古風な女に愛され、自立していく構図がいい。

 古風すぎる白娘は現在では受け入れられないキャラクターかもしれないが、よく似たキャラクターといえば「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」の小倩が思い浮かぶ。白蛇伝は中国では最近でも映画化されているし、日本でも受け入れられる可能性はある。とはいえ、日本で魔性の女の純愛といえば、思い浮かぶのは「信田妻」。男女の愛というより、安倍晴明の誕生秘話の色合いが強い。または「鶴女房」か。これでは男の側の愚かさに救いがない。

 日本は未熟な男に冷たい文化なのかも。

「ブルークリスマス」を観る2023年03月02日 21:18

 「ブルークリスマス」を観る。1978年の日本映画。監督は岡本喜八、脚本は倉本聰。主演は仲代達也、勝野洋、竹下景子。

 ワンアイディアのSFネタ(この場合はScience FictionというよりはScience Fantasyであろう)をメタファーとして使った政治ドラマである。異質なものに対する恐怖、差別、排斥、その正当化としての情報操作による恐怖と憎悪の増幅が描かれる。善悪二元論や人権の否定(敵は人間ではないから惨殺しても構わないという思考法は時と場所を選ばず、戦争という狂気を正当化する定番の理屈)が世界レベルの政治で仕組まれる恐怖を描いた映画だ。今、この世界情勢でこの映画を作ることができるかといえば、忖度(=脅迫)政治が蔓延したこの国で、倉本聰と岡本喜八の両者が健在であっても難しいだろう。それとも、「SF」は子供だましのくだらないものだと世論操作して黙殺するか、「難解で意味がわからない」と排除するか。

 とはいえ、映画としてはいささか微妙な出来だ。主に2つのパートが絡み合うストーリーなのだが、その絡み合いがちっとも有機的になっていない。複数のストーリーが絡み合いながら有機的に全体を組み上げていく今のSF小説に比べると、ストーリーテリングの甘さが目立つ。仲代達也演じるジャーナリストも背景設定が薄く、脚本上でリアルなキャラクターとしての説得力に欠けている。仲代の演技によってかろうじて生身のキャラクターとなっているレベルだ。勝野洋の軍人は朴訥を通り越して異様。好きになった理容師のいる理髪店にスポーツ刈りの頭で3日と開けず通うなど、もはやストーカーである。そんな男に惹かれる竹下景子演じる理容師という設定もリアリティがない。みんな単なる記号である。仲代の演技力と、竹下の美貌と、勝野の「太陽にほえろ」での人気でかろうじて押し切ったと言わざるを得ない。もちろん彼らを支える映像を生み出した岡本喜八の力も重要だ。

 倉本の脚本が残念ながら「意あって言葉足らず」の紀貫之的なものだったと言わざるを得ない。120分超えの尺でもこの脚本、設定は描ききれていない。TVで2クールぐらいのスケールでないと(今の視聴者は1クールぐらいにしないと辛抱できないだろうが)難しいのではないか。SFとしても、ヘモグロビンがヘモシアニンに変化するメカニズムを描かないのはともかく、その変化によって性格まで変化するという設定も説得力に欠ける。こういった部分の補強はSFのキモなのだが、そういうセンスはこの作品にはない。日本人がよりどころである日本そのものを喪失するというメタファーに徹底的な科学的考証をつぎ込んでリアリティを高め、そのことによって、作品の出来の良し悪しは別としても、何度も多角的な視点でリメイクされる「日本沈没」とは対照的だ。

 映画としては今ひとつ、だがテーマは、むしろ現代の世界に対して大きなインパクトを持ったものになっている。いろんな意味で「もったいない」作品だ。

「カフカ「変身」」を観る2023年03月03日 22:35

 「カフカ「変身」」を観る。2019年イギリス映画。監督、脚本はクリス・スワントン。

 おなじみのカフカの「変身」(と言っても、名作扱いなので敷居が高くて読んでいない人も多いのでは?)。映画は原作をほぼそのまま映像化している。誠実な作りの映画と言える。

 だが、問題は主人公、グレゴール・ザムザが変身した「虫」。ポスター画像ではどう見ても巨大複眼のハエっぽい造形にしか見えないのだが、これが偽りあり。映像で実際に出てくるのは、薄汚れた灰色の昆虫。それも目はぱっちりした単眼。マンガのような愛嬌のある目がクリクリ。感情移入させたい気持ちはわかるが、これではこの作品には逆効果。

 この虫さえ原作で言う「不快で嫌悪の対象となる虫」に完全に造形されていたら…一歩間違えればモンスター映画になるのかもしれないが…

「Oscar Peterson Trio」の「The Trio」を聴く2023年03月04日 16:15

 「Oscar Peterson Trio」の「The Trio」を聴く。最近見つけた中古レコード店にはじめて入ってアナログレコードを物色したところ、いくらか気になったもののうちの一枚。お値段も手頃だったので購入。

 Oscar Peterson Trioは知っているし、CDも数枚持っているが、このアルバムについての予備知識はなし。Live Recordingとあるのが興味を惹いた。1961年、シカゴのジャズ・クラブ「ロンドン・ハウス」での演奏。シカゴなのにロンドンとはまた、混乱しそうなクラブである。

 ベースはレイ・ブラウン、ドラムはエド・シグペン。クラブでのライブなのだから、鹿爪らしい演奏ではなく、ただただ心地よい。三人の演奏テクニックも凄いし、だからといって押し付けがましくない。リラックスして聴くのに最適だし、そういうアルバムがあっていい。

 食器の当たる音や客のざわめきもリアルに聞こえてくる。ジャズクラブでのライブならではの雰囲気も楽しい。アナログ盤なので片面20分少々、両面でも50分弱。これぐらいの長さがゆったりと聴ける適量か。現行のCD盤ではボーナストラックも収録されて70分近くになっているが、そうなると忙しない現代生活では垂れ流しでもしないと聴けない。アナログ時代は長時間連続再生に憧れがあったが、過ぎたるは及ばざるが如しということか。アナログ特有の手作業(儀式?)である、盤面クリーニングやスタイラスクリーニング、そして針落とし、針上げといった行為も、曲を聴くメリハリとして機能しているような気がする。

 それに、中古のアナログLPでもこの音だ。現代のデジタルデータと遜色を感じない。かつてはアナログレコードよりラジオやTV、ダビングしたカセットテープの音質は確実に悪かった。だが、オリジナルのレコードはもともといい音を記録できていたのだろう。現在の技術なら、アナログレコードの再生機能も高音質化されている。手軽に、アナログ記録された音をいい状態で取り出せる環境になって、見直されるのも当然だと思う。

「私はあなたのニグロではない」を観る2023年03月05日 20:35

「私はあなたのニグロではない」を観る。2016年のアメリカのドキュメンタリー映画。作品にも登場するアメリカの黒人作家、ジェイムズ・ボールドウィンの未完の原稿をもとに、ラウル・ペック監督が制作した作品。

 公民権運動のうねりの中で、ボールドウィンの友人だったマルコム・X、マーティン・ルーサー・キング、メドガー・エバースの三人についての回想が語られる。三人とも暗殺され、ボールドウィンはその知らせを聞き、怒り、失望する。

 作中、ボールドウィンがTVのインタビューで語る話は衝撃的だ。アメリカでは黒人であるだけですでに生命の危険がつきまとう。嘘だと思うなら警官の顔を見ればいいと彼は言う。ヨーロッパでは少なくとも黒人であることは生命の危険を意味しないとも。黒人ジャズミュージシャンが多くヨーロッパに拠点を移し、そこでのびのびと活動し、それがヨーロッパへのジャズの浸透につながったのだが、彼らがヨーロッパに向かったのはただ単に活動しやすかったからではなく、こういう背景があったのかもしれない。日本人ジャズピアニストがコロナ禍でのアジア系差別の結果、アメリカで襲われ、再起を危ぶまれるほどの大怪我を負わされた事件も頭をよぎる。

 黒人を扱った映画についてもなかなか辛辣。だが、「夜の大捜査線」のラストシーンで、白人と黒人が互いに「受容」したという発言は一筋の光明かもしれない。

 ボールドウィンは1987年にパリで死去。もちろんBLMも知らない。35年後のアメリカは、いまだにボールドウィンの指摘した、「黒人であるだけで生命の危険にさらされる」現状から変わりきっていない。そして世界もまた同様だ。「受容」がどうして出来ないものか。互いに学び合うことがそんなに難しいことなのか。