インスタバエの末路2023年02月01日 20:14

 「インスタ映え」に猫も杓子も入れあげて、マスコミも無責任にそれを煽る。誰でもかんたんに社会的承認欲求を得られる(大勢に手軽にほめてもらえる)ということで、「効率的」に自己評価を上げようという輩が増える。裾野が広がれば、当然レベルは低下する。

 かくして「インスタ映え」は「インスタバエ」と揶揄されるまでになってしまった。こうなればもう「駆除」対象と言われても仕方ない。なにせ今や清潔になった日本ではあまり姿を見ない害虫「ハエ」なのだから。

 さすがにハエだけに、最近は外食フランチャイズ店に頻繁に出没しているようだ。「映え」を追うのは人間だが、「ハエ」になってしまってはどうしようもない。衛生管理の観点から、「ハエ」の温床になっているスマホやカメラの飲食店持ち込みが禁止となる風潮が出てくるのではないだろうか。宣伝効果よりも「ハエ」による被害や風評被害のほうが大きいのだから。

「迷子の警察音楽隊」を観る2023年02月02日 22:28

 「迷子の警察音楽隊」を観る。2007年のイスラエル・アメリカ・フランス合作映画、監督は エラン・コリリン。

 1990年代、イスラエル。エジプトの8人の警察音楽隊が招かれてイスラエルの空港に降り立つ。だが、手違いで迎えが来ない。更に手違いで8人は寂れ果てた砂漠の近くの街に迷い込んでしまう。

 すでにバスもなく、行くあてもない8人は、街の食堂の女主人、ディナの好意で3件の家に分宿することになる。

 楽団の団長トゥフィークは頑固一徹でプライドが高く、かんたんに他人の好意を受け入れたりしない。イケメンの若い団員カーレドは女の尻ばかり追いかけているが、口説くときはなぜかチェット・ベイカーのマイ・ファニー・バレンタイン。部下筆頭のシモンは協奏曲の作曲に行き詰まり、トゥフィークに指揮をさせてほしいと願い出ているが、認めてもらえない。トゥーフィークにも苦しい過去があるが、容易にそれを口に出すことがない。ディナはトゥフィークに惹かれ始め、トゥフィークも惹かれていくのだが、その思いも自分の中に飲み込んでいく。

 登場人物は誰もみな寂しく、物悲しく、そして優しい。一番軽いカーレドでさえ、「ブルーに生まれついて」で取り上げられたチェット・ベイカーのファン、つまりブルーな雰囲気を拭い去れない。そしてみんなそれぞれに懸命に生きていて、そこがそこはかとなくおかしみを生んでいる。そしてみんな口数が少ない。アラビア語、ヘブライ語、そしてイスラエル人とアラビア人がコミュニケーションを取るために使う英語。どの言葉も登場人物全員のコミュニケーションには役不足。必然的に言葉ではなく、表情や音楽が大きなウェイトを占めることになる。

 楽団員と住人がぎこちないのも当然。物語の舞台の少し前には中東紛争の敵対国同士のエジプトとイスラエルだ。そういう空気もかすかに感じられる。

 作中に登場する歌がラストに流れると、相聞の歌になっているのも秀逸。言葉にしなかった心の中が伺える。ストーリーもすべてを説明し尽くすようなものではなく、余韻を残すものとなっている。何もかも映画で語り尽くしてもらわないとスッキリしないという向きにはストレスとなるかもしれないが、味わい深さが素晴らしい。

節分2023年02月03日 22:58

 鬼を払う日、本当は季節の境なので年4日あるのに、冬の最後の日、立春前日だけがクローズアップされるようになり、最近は太巻きを黙々と食べる日でもある。

 現世には、払ってもらいたくて仕方がない鬼があちこちで出現中だ。豆だけで追い払えればいいのだが…

こどもの国?2023年02月04日 17:41

 あれ買ってよ!みんな持ってるんだから買ってよ!
  (→店先で駄々をこねて叱られる)
 あのヒーロー、かっこいいよ!みんなそう言ってるよ!
 (→だいたいすぐに飽きる)
 あのテスト、難しかったんだ!みんなそう言ってるよ!
 (→学力は絶対にアップしない)
 ああいうの、憧れるなぁ!みんなもそう思ってるよ!
 (→真似してみるが、三日坊主で終わる)
 ああいうやつ、気持ち悪いよな!みんなそう言ってるぜ!
 (→典型的ないじめの屁理屈)

 こどもの時分、珍しくないこういう思考法を、一生続けている。それがみっともないことすらわからない。そういう連中がこの国に限らず、国を動かす層にいる。

 こどもの国である。「いい加減にしなさい!」と叱ってくれる大人のいうことを聞くだろうか。

スポーツという見世物2023年02月05日 16:00

 すべてのスポーツは見世物だ。アマチュアもプロも、子どもも大人も関係ない。残念だが、それが実態のようだ。

 やっている本人たちは、ただ楽しく(あるいは何かの得を求め、あるいは気がつけば支配・隷属関係に置かれ)てスポーツをやっているのだろう。もちろんプロはそうはいかない。彼らは明らかにエンターティナーであり、芸能人と本質的には変わらない。プロスポーツは根本的に見世物だ(だからといって、どこかの国の裁判所のように芸能人は私生活もコンテンツなのだから、プライバシーのある程度の侵害はやむをえないなどとは全く思わない。誰と誰がくっついただの離れただのというゴシップ話には全く興味が沸かない)。

 しかし、本来見世物である必要のないアマチュアスポーツやこどものスポーツを食い物にしている連中のなんと多いことか。新聞、テレビ、ラジオは言うまでもなく、彼らの所属する学校、団体もまた、スポーツを楽しむアマチュアやこどもをむしりあげている。金、権力、社会的地位、志願倍率、志願者増…必ず外野の連中の(あるいは主催者側の)そろばん勘定が入り込む。アマチュアスポーツのスポンサー企業だって、自社CMのイメージにアマチュア選手や競技を使うことが前提だ。決してボランティアで資金援助などしているわけではない。

 さらに、社会的承認欲求という欲望を満たすために、一般の個人も猫も杓子もやれインスタだの、SNSだのとうつつを抜かして情報をネットにばらまく。

 だから、今やすべてのスポーツは見世物だ。それに気づかないで頑張った挙句、むしりあげられて困り果てているアマチュアやこどもがどれだけ多いことか。大会パンフレットと称するものに選手の顔写真を掲載しようなどと前時代的なことを平気でやっている学校スポーツ団体も存在するそうだから、呆れ果ててしまう。いっそすべての人がスポーツを始める前に、個人のプライバシーの一部が侵害されることを了承する念書でも書くべきだろうか。まったく馬鹿げている。

 アマチュアやこどもを見世物から解放して、スポーツを楽しませることはできないものか。ここ数年、そんなことを考えていたら、マスコミのスポーツ報道をどうしようもないほど不愉快に感じるようになってしまった。ある中学生がスポーツ大会で大活躍した途端、私生活を報道陣やファンに侵害されたと弁護士を通じてコメントを発表したという。報道はその子を実名入りで報道している。それ自体がすでにプライバシーの侵害ではないか。

 ことは報道だけの問題ではない。報道を求める我々の側の問題だ。知る権利は知られるものの人権や生活を守る義務の上に初めて成り立つ。スポーツを楽しむアマチュアやこどもの平和な個人生活をむしりあげる権利など、誰も持ってはいない。