「ゴジラ -1.0」を観る2023年11月14日 21:08

 「ゴジラ -1.0」を観る。

 山崎貴監督ということで、過去の作品を思い返すと正直不安があった。なにせあの「ヤマト」をやってしまったのだから。

 とはいえ、今回は東宝丸抱えコンテンツ。TV局の介入もなければ、某芸能プロダクションの介入もない。その結果かどうかはわからないが、文句なしの作品に仕上がっている。

 昭和22年という設定でゴジラと対峙するにあたり、東宝お得意のパラボラ兵器やら、空飛ぶメタリックダンゴムシやら、かなり無理筋の秘密兵器(というより薬品か?)は登場しない。当時現実に存在した武器や道具で立ち向かうというところもいい。

 なにより、ドラマパートが怪獣映画にありがちな取ってつけたような学芸会ドラマではないのがいい。特殊な能力をもった人間がいるわけでもなく、天才がいるわけでもない。背後に戦争を背負い、苦しんでいる等身大の人間ばかりというのは、考えてみればこれまでのゴジラ映画ではなかったような気がする。

 深読みやもやもやが残る仕掛けも秀逸。何もかもスッキリチャンチャンではゴジラ映画としては残念だが、そこも抜かりない。今どきの早送り視聴・タイパ大好き世代がこのドラマパートにどれだけ対応できるのかは不安だが。描写されない「行間(画面間か?)」を想像できるかどうかがこの映画を楽しめるかどうか、正しく受容できるかどうかに影響するのは間違いない。敗戦直後という過去を観る側がどれだけ感受できるか。

 そしてなんと言ってもゴジラ。サイズこそ前作シン・ゴジラより小ぶりだが、とにかく怖い。徹底して凶暴。とても人類の味方になどなりそうもない。我々は人類や地球の守り神としてのゴジラを欲しているわけではないということがよくわかる。そういう「ガメラ的ゴジラ」はアメリカに任せておこう。彼らのいう「ゴジラ」は「VSゴジラ」であって、やはり初代ではないのだろうから。

「仕立て屋の恋」を観る2023年08月30日 21:13

 「仕立て屋の恋」を観る。1989年のフランス映画。監督はパトリス・ルコント。

 ジョルジュ・シムノンと言えば、メグレ警部(目暮警部ではない!)の生みの親として有名だが、この作品はそのシムノンが原作。メグレ警部は登場しないが、ミステリ風の作品となっている。

 22歳の若い女性が殺害されたところから物語は始まる。容疑者の一人が変わり者で偏屈な中年の仕立て屋。かつて猥褻罪で検挙されたことがあり、警察がマークする。その仕立て屋イールは、実は向かいの部屋の若い女性を覗くのを楽しみにしていた。

 ヒッチコックの「裏窓」を彷彿とさせるが、どちらかと言えば健康的(?)なイメージのヒチコックに比べ、こちらの方は淫靡とも哀切ともつかないカタルシスのなさ。覗かれている女性アリスは、偶然稲光が光ったことで向かいの部屋(電気も付けず暗いので、外からは覗いているイールが普通は見えない)のイールが覗いていることに気づく。ところが彼女はイールに近づいていく…

 覗かれることに快感を感じているのか、それとも他に目的があるのか。はたまたその療法なのか。物語はこの二人の距離を軸に展開していく。二人の距離が超えてはならない境界を超えたとき、物語は大きく皮肉に展開していく。

 イールの名前や風貌など、ヨーロッパ人ならピンとくる点がある。我々の目から見たらなぜイールはあんなに周囲に嫌われ、子供にまでいじめられるのか不思議だが、裏には当時の民族差別の問題がさり気なく散りばめられている。そんな鬱屈したイールが純愛に目覚めたとしても、やはり悲劇的な結末しかないのだろうか。アリスとイールは視線を合わせながら、その間には窓があり、決して触れ合うことはない。その境界が失われるのがなぜか、それがわかるまでは物語に突いていく必要がある。そういうひっぱりについていく心のゆとりがないと、こういういい作品を楽しむというのは難しい。


「8 1/2」を観る2023年08月21日 21:18

 「8 1/2」を観る。1963年のイタリア・フランス合作映画。監督はフェデリコ・フェリーニ。ずいぶん久しぶりの再鑑賞だ。

 有名な映画監督のグイドの不穏な夢から始まるこの作品、現実と夢想との境目がどんどん曖昧になっていく。そのあたりの夢幻性が受け入れられないと、ピンとこない人も多いだろう。

 グイドは想像力の減退を感じている40代。肉体的にも衰えを感じ始め、性的にも衰えを自覚し始めているようだ。妻との仲は冷め、それでもなんとか復縁することで自分を回復しようとしている。その反面で愛人との不倫にものめり込むのだが、その愛人の品のなさに引き始めてもいる。

 幼少期に性的な抑圧を受けているような描写もあり、夢想の中では女性たちを自分の思い通りに支配し、反逆されれば鞭で脅す暴君ぶり。しかし現実では自作の脚本を叩かれ、シナリオはできず、プロデューサーからはせっつかれ、でたらめなセットを作らせてはクランクインをズルズルと引き伸ばす。冒頭の夢想で、逃げ出したいともがき、空を飛んで開放されるかと思えば、足にロープをかけられ、引きずり降ろされていく。八方塞がりのグイドはますます夢想に逃避する。

 ラストは祝祭的な大勢の踊りのシーン。だが、その中に紛れ込む白装束の人物。不穏な空気をはらみながらにぎやかな祝祭は続くが、ラスト、白装束の人物がたった一人になり、画面から消えていく。祭りのあとの寂しさ、虚しさ。それはグイドの存在を暗示しているのだろう。

 グイドの理想の女性を演じたのは、フランスの名女優、クラウディア・カルディナーレ。劇中でも女優クラウディアとしてグイドの前に登場する。理想の女優と出会えたグイドは、その彼女を現実では受け入れられない自分を自覚する。求めても得られない理想、それでも求め続けで自滅していく人間。フェリーニはそういう主人公をたくさん生み出している。


「原爆下のアメリカ」を観る2023年08月08日 20:50

 「原爆下のアメリカ」を観る。原題は "Invasion U.S.A."、1952年のアメリカ映画。

 マッカーシズムの渦中に作られたB級映画となれば、ガチガチの反共プロパガンダ映画となるのも当然。プロパガンダ映画の金字塔といえばあの有名な「カサブランカ」だが、あれは恋愛映画としてもハードボイルドとダンディズムの世界を描いた作品としてもサマになっている。こちらは如何せん、お粗末としか言いようがない。

 とにかく原爆を落としまくりだ。アメリカにも十数発、敵国(おそらく共産圏)には報復にそれ以上。放射能汚染についてはセリフ一言。核兵器をナメてかかっているにもほどがある。ニューヨークも核攻撃を受けるという設定だが、通常爆弾よりもチャチな破壊。

 とはいえ、技術的な問題はあったのかもしれない。初代ゴジラが東京をさまよい歩き、破壊の限りを尽くしたのは2年後の1954年。我々はゴジラ上陸後の東京の惨禍が東京大空襲やヒロシマ・ナガサキの惨状を彷彿とさせる、リアルと地続きのものであることを感じているが、この作品の中にもある通り、100年以上本土を他国が攻撃したことがなかったアメリカ(真珠湾はハワイ島。本土への敵性勢力の攻撃は9.11が初)に、本土破壊の映像のリアリティは当時はあの程度にすぎなかったのだろう。

 キューバ危機よりも前、核に対する認識はとてつもなく甘かったことがよく判る。核の恐怖より共産圏による社会秩序の破壊のほうが怖かった、その恐怖から力で目を背けようとしていたアメリカの空気が伝わってくる。そして、自国が使用した核兵器が生み出した惨状を(未だに)自国民にきちんと伝えようとしないアメリカの暗部も見えてくる。情報操作でロシアを指弾するどころではなさそうだ(もちろん指弾はしなくてはならないが、同時に自身も指弾しなくては)。

 オチに至っては脱力モノ。SF映画のカテゴリに入れる風潮もあるようだが、あのオチではとてもSFとは言えない。しかし、アメリカ人がこの作品のようなプロパガンダを未だに引きずっているのではないかと不安にもなる。

「花咲ける騎士道」を観る2023年08月01日 22:00

 「花咲ける騎士道」を観る。1952年のフランス映画、監督はクリスチャン・ジャック、主演はジェラール・フィリップとジーナ・ロロブリジーダ。

 主人公のファンファンはちょっとC調でお調子者、それでもどこか憎めないプレイボーイ。剣の腕は立つのだが、所詮素人剣法の域。今日も村の若い娘と真っ昼間からイチャイチャしているところを娘の父親におさえられ、とうとう結婚させられるハメに。18世紀が舞台なので、男女が野外の農地の藁山で昼間からというのは、実は自然なこと。庶民の夜のベッドのシーツは南京虫だらけでとてもとてもというのが現実だったらしい。

 浮名を流し、結婚をすり抜けてきたファンファンだが、街に連れ戻されるとき、美しいジプシー娘から「王女と結婚する」と占われてすっかりその気に。街で徴兵募集の軍人を見つけて入隊して難を逃れるが、徴兵していた舞台の隊長の娘が実はさっきのジプシー娘。占いは真っ赤な嘘で、そうやって若い男を徴兵していたらしい。

 それでもファンファンはお構いなし。脳天気というかなんというか。本隊に連れて行かれる途中で盗賊に襲われる立派な馬車を助けたら、なんと馬車に乗っていたのはポンパドール婦人とアンリエット王女。ファンファン、すっかり王女と結婚できるものと信じ込んでしまう(当の王女はあまり相手にしていない)。ポンパドール夫人に気に入られたファンファン、直々にチューリップのアクセサリと二つ名を賜る。曰く、「ファンファン・ラ・チューリップ」。これより彼の通り名は「チューリップの騎士」となる。

 舞い上がるファンファンだが、それを見ていた隊長の娘のアドリーヌ、心中穏やかではない。どうやらファンファンが好きになってしまったようで…

 とまあ、こうしてあらすじを見ていると、お調子者で高嶺の花のお嬢様に熱を上げて舞い上がる世間知らずの若者という少年漫画(それもコメディ)王道パターンそのものだ。こういう空回り若者コメディは洋の東西、時を問わないのだろう。とにかく全編底抜けに明るいのだが、日本の映画にありがちなしらけるほどのバカバカしさ陥る手前で踏みとどまっている呼吸がいい。マンガチックにならず、かといってシリアスにもなりすぎす、そういうさじ加減はおしゃれだし、フランス映画のコメディ感覚は今でもそう言うとことを残しているように思える。

 ジェラール・フィリップはアラン・ドロンの前の世代のフランス二枚目俳優。軽くてC調の主人公を演じているが、いやらしさやバカバカしさを感じさせず、弱さも愚かさも併せ持った情熱的な若者を見事に演じている。一歩間違えばただの浮気なバカ男になる役を、きちんと共感できる存在に作り上げているのは実力のなせる技。実にクールで若々しい。日本で言えばちょっと若くてハンサムになったルパン三世か。ロロブリジーダもセクシーで美しい。女好きのファンファンが王女に熱を上げて冷たくあしらっているのが効いていて、これまた王道のボーイ・ミーツ・ガールのパターン。

 剣劇(というのが一番しっくりくる)が大時代的なのはいたしかたない。それでも当時の海外映画としてはアクション満載と言えるだろう。そこは時代劇ずれした日本人の目で観るのは可愛そう。なにせ70年代中盤のアメリカでも重たい棍棒を振り回すようなライト・セイバーの殺陣を描いて我々を鼻白ませたのだから(あのダース・ベイダーが当時の日本の時代劇に登場したら、資さんに張り飛ばされ・格さんにぶん殴られ・金さんに手ぬぐいで叩かれ・刀舟先生に「たたっ斬られ」・主水の旦那にブスッと斬られ・たっぷり罪状をさらされた挙句、桃太郎に「退治」され、天下の風来坊を名乗る上様に「正義」の鉄線で完膚なきまでに成敗されるに違いない)。

 全編、まさに痛快明朗。ラストのオチもちょっと気持ちよく驚かされる。ちなみに当時のフランス王はルイ15世…「シュヴァリエ」、デオン・ド・ボーモンの活躍した時期であったか!