子供の居場所が見えない人々2023年10月19日 16:22

 子供の居場所がない。妙な条例をぶち上げて総スカンを食らう議員が現れたことで、逆にそのことが浮き彫りになっている。

 学童保育の職員が低賃金で集まらず、待機児童ゼロという「仮想現実」をでっち上げるために芋洗い状態の学童保育が横行する。運営側が見ているのは現実ではなく、ゲームのクリア条件ということだ。ゲーム中毒などとどの口が言うことやら。戦争下における人道支援を述べる某国の指導者と同じで、へそが茶を沸かす。

 どこかの首長は不登校は親の責任だと言い放ち、義務教育にいやいや通う子供を努力して後押しするのが保護者だと言っている。よほど義務教育がお嫌いだったのだろう。だから新しい不登校の現実について「学習」し、知識を「更新」する能力も身につけていらっしゃらないらしい。義務教育が悪いのか、それともご本人の学習に対する怠慢なのか。前職が公安系だということは、ますます恐ろしい。某民放ドラマがカリカチュアライズした(有り体に言えば皮肉っておちょくった)公安系ドタバタドラマが生まれるのも宜なるかな。真面目に義務教育を全うして期待される学力を習得した多くの公安系の方々の憤懣はいかばかりのものか。

 世界的にも同様だが、大人の社会というものに子供の居場所はない。その問題点に100年以上も前に気づいた海外諸国は多くの時間を費やして「子供の権利」を研究してきた(そしていまも研究している)。それでも子供は世界中のいたる所で搾取されている。経済的に、政治的に。ミニマムな権力欲と名誉欲で搾取される子どもたちは最近のこの国では「教育虐待」という文脈で表現されている。海外ではどの程度進んでいるかといえば、この国よりは幾分マシだと思われるアメリカで制作された1979年の「クレイマー・クレイマー(原題「ramer vs. Kramer」は法廷闘争を明確に打ち出しているが、邦題の「・」の方がより問題点を広く考えやすい)という映画を見ればわかる通り、社会的に称賛される仕事人間は家庭人としては失格、そして子供は明らかに仕事人間の足かせとして描かれている(もちろんそれが問題だという視点だが)。あれから40年経過したが、あの映画が過去の意味不明な作品ではなく、今でも名作と言われていることを考えれば、簡単に解決できる問題とは言えないだろう。

 「大人」の世界にどっぷり浸かって「大人の社会」というVRゴーグルをはめてゲームに没頭している者に、子供の実態は絶対に見えない。そういう連中を「票」を入れる少数派(投票率は40%程度、その中で過半数51%が票を入れたとすれば、全選挙民に対する実質得票率は100*0.40*0.51=20.4%)が支えている。そして、残り80%が意思表示をする候補もまた「大人」ゲームで勝つことを求められている。異を唱えて候補になるには数百万円の供託金が必要だ。マナ不足ではゲームに参加もできない。かつてこんなゲームにうつつを抜かした結果、国を焼け野原にしたのはどこの国か。負け組の、低所得の、過疎化した地方の現実を見ずに、票の見込み数だけを見るようなことでは、利権の貪り合いとしらけしか生まれない。いまだに喫茶店のテーブルで「名古屋撃ち!」しかしていない連中を、「エルデンリング」やチラズアート、「スイカゲーム」を楽しむ若い層が相手にすると思っているのだろうか。あるいはTVゲームとは無縁の地方高齢者が正しく評価していると思っているのだろうか。そして高齢者も若者も、次第に暴力的な言動をつのらせている現実。YouTuberがゲーム攻略配信で発する暴力的罵詈雑言や、高齢者のカスハラ・パワハラ(困った高齢者はよく「お客様は神様だ(これも物故した某歌手のキャッチフレーズの受け売りに過ぎない)」というが、八百万の神がましますこの国には「貧乏神」も「疫病神」も「死神」もいらっしゃる。「汚客様」と呼ばれているうちはまだマシか)。

 面従腹背は日本人のお家芸だというのがベネディクトの「菊と刀」での主張だが、堪忍袋にもそろそろ限界が来ている。過去の歴史もきちんと「いやいや通わされた」義務教育で身に着けていればいいのだが。いや、その「歴史」もしばらく前にVR化されはじめていたような…

神や仏は…2023年10月14日 17:47

 神は自然と似ている。

 人類に多くの恵みを与える一方で、人類をとんでもなく残酷な殺戮・破壊者にもする。

 神(や国)のためにと称して、人としての感情に蓋をして、どれほど多くの人が命を落とし、また奪ったか。仏であっても「僧兵」という戦国時代には無視できない武装僧侶軍団がいたことを考えれば類似点は無視できない。

 神の名のもとに人の財産を剥奪し、人の自由な思考を抑圧し、他者の存在を否定し、殺戮や破壊を正当化する。戦争は常に神(あるいは国)のためのものだ。

 神や仏も、人の頭が生み出したもの。人が生み出した理屈(仮想)の社会をあたかも実態があるかのように見せて他人を支配する。支配する快感は権力の快感そのものにつながる。そして権力の恣意的濫用が始まれば、もうなんでもありだ。

 自然は人類の存在など一顧だにしない。それを擬人化して自分の頭の中の理屈にはめ込もうとする営みが神仏であろう。その時点で自分の世界観を安定させる快感がつきまとうのであれば、すでに危険な兆候はその時点から発生しているとも言える。

 信仰は個人の内面の問題であり、他人がとやかく言う筋合いはないが、それが複数の人間に伝播するのであれば、批判的に受け取らなければならないだろう。宗教関係の人々にはにわかには受け入れがたいかもしれないが、宗教は政治や言論と本質的には同じもので、批判の対象としなくてはいけない。人の頭が生み出したものである以上。

「大人になれ」とはいうものの2023年10月13日 21:18

 青く真っ直ぐな物言いをする若者に対して使われる常套句、「大人になれ」。

 大人になった結果が、自分に都合のいい言い分をまくし立て、自分の失態や恣意的行動と権力欲、自己中心的保身に明け暮れ、権力を盾に己の欲望のままに他者を貪り、わけのわからない詭弁を弄し、都合が悪くなると(下手をすればこの世から)逃げ出す。

 立派な大人もあったものだ。そんな「大人」が作った社会は、どこの国でもすでにガタが来ている。それでも権力を貪りたい大人は「強い国を取り戻す」「美しかった国を取り戻す」と、自分の恣意的欲望を理想とすり替え、同じ欲望を求める連中と徒党を組んでやりたい放題。国や社会がどうなろうと、「大人」は「悪いのは他の連中で自分ではない」と言い訳をする。悪知恵がある分子供のわがままより高等ではある(別の言い方をすればたちが悪い)。

 この国でもそういう「大人」と、その「大人」にしがみついて甘い汁を吸いたい連中がぞろぞろいる。だからそういう「大人」が「票」や「支持」という錦の御旗を振りかざす。いや、この国だけではない。世界中どこでも、これまでもずっとそういう構図は続いている。政界も、芸能界も、またしかり。

 そして、その構図は多くの人々を道連れにして、音を立てて瓦解している。

 焼け野原の瓦礫の山から最初に立ち上がるのは、やはり「大人」か、「大人」の階段に片足をかけた連中か。それともこれまで現れてこなかった人々か。

「ブラック」状態の子どもたち2023年10月04日 09:21

 厚生労働省が「睡眠指針」の改訂原案を発表した。それによると…

 成人6時間以上
 1~2歳児11~14時間
 3~5歳児10~13時間
 小学生9~12時間
 中学・高校生8~10時間
 子どもは、米国睡眠医学会の推奨時間と同じということらしい。

 仮に中高生の睡眠時間を10時間と設定する。「睡眠の質」を言い訳に睡眠時間はそんなにいらないという意見もあるが、逆に言えばそれだけ必要な人もいるわけで、そういう人を排除するような言説は弱者切り捨て以外の何物でもなく、人不足・少子高齢化の現代では到底容認できない暴論だ。

 24-10で、起床時間は14時間。学校が始業から放課までを0830〜1530とすると、7時間。14-7=7時間。通学については差が大きいが、高校生が電車通学等をすることを考え、往復60分として7-1=6時間。家庭での朝食、夕食、入浴を(非常に少なく…早めしとなんとかは芸のうちという戦前軍隊のようなスタイルではある)60分と仮定して6-1=5時間。

 残り5時間だが、これに昨今世間で取り沙汰される部活動を考える。1600〜1900ぐらいの拘束時間が実際には標準的なところだろう。とすれば、3時間。5-3=2時間となる。

 多くの中高生は塾に通っているとして、2時間で通塾+学習が収まるとは思えない。
 通塾や通いごとがなくても、中高生が自由に使える時間はわずか2時間。もちろんこの中に「予習・復習」が含まれるし、英語・数学の教員に言わせれば、そんな学習時間では足りないというのは(私の経験からも)必定だ。これではゲームやスマホはおろか、数少ない学校推奨娯楽である「読書」すらままならない。自ずと睡眠時間を削るしかない。部活動に参加しないという選択肢ももちろんある(というより、10時間睡眠を保障する限り、部活動が中高生の生活に介入する余地などどこにもない)が、推薦入試や入社試験での「ガクチカ」偏重を考えると部活動不参加は子どもたちや親にとっては不安だろう。しかしこの生活モデルを強いるのは、ブラック企業と何ら変わりがない実態と言える。

 小学生なら12時間睡眠を確保となる。起床時間は12時間。学校拘束時間は中高とさほど変わらないので7時間とすれば、12-7=5時間。通学は往復30分としても、食事や入浴はゆっくりだろうから、通学、食事、入浴トータルで2時間とすれば中高生と変わらない。5-2=3時間。もちろん塾やお稽古ごと、スポーツクラブその他諸々を考えれば、もう残り時間はない。これまたブラック。

 睡眠不足は抑うつ傾向の高まりや学業成績の低下につながる。2022年の文部科学省の「児童生徒の問題行動・不登校調査」で、不登校の小中学生は約29万9千人となり、過去最高。いじめも小中高などで約68万2千件、被害が深刻な「重大事態」は923件と、これまた過去最高。小中高生による暴力行為も約9万5426件と、こちらも過去最高。「寝ずに働け」「四当五落(さすがに死語か}」「24時間働けますか」の結果、多くの人が心身を壊している。上記の結果は子どもたちの悲鳴以外の何者でもない(大人も「過労死」し、自ら命を断つ)。

 コロナ禍明けで学校活動が広がったのも原因だろうが、企業どころか学校(そしてそのシステムを支えている受験産業や社会そのもの)がこれほどブラックな生活を子どもたちに強いているのなら、子どもたちが「問題行動」に走るのは当然だ。かつての「構内暴力」「荒れる教室」は、暴力(愛のムチと称する権力濫用)と脅迫(内申書に響くぞ!)と不審(放っておけばこどもは勉強しないし、ろくなこともしない)で抑え込んだ。そのツケが社会人となったかつての子どもたち(=親たち)の学校不信とモンスターペアレント化を生んだのだから、自業自得だ。もうこのような愚かしい手は使えない(が、ノスタルジーに溺れた多数の業界人はそれが理解できない)。「教育虐待」という言葉があるが、上記のブラックさは社会全体の子どもたちへの「教育虐待」と言えるように思えてならない。

 日本社会は、子供を抑圧と恐怖で抑え込み、少年兵士にさせるような非道な所業を非難できるような子供への接し方をしているだろうか?

 それに加えて、文部科学省と厚生労働省がお互いの成果をきちんと共有しているのだろうか。

ノスタルジーと揺り戻し2023年10月03日 20:43

 変化が速い社会では、ついていけない人間が大勢生まれる。ついていくのに手一杯の人は、ついていけない人に手を差し伸べるゆとりもない。だからついていけないのは「自己責任」。しがみつかれてはたまらないので冷たくあしらうより他にない。

 ついていけない方も、別に能力が低いわけでも、自己責任を果たしていないと言うわけでもない人が多い。そういう人は自分たちを冷たくあしらう「エリート」に反感と憎悪を抱くようになる。

 ついていけない人は、憎悪の対象である「エリート」に目を向けることなく、過去の社会に安住しようとする。ノスタルジーはこの心性によって大きく増幅する。

 ノスタルジーは過去であり、地方や周辺部であり、失われつつあるものによって表象される。そして多くは過去の既得権益への執着や回帰、無批判な過去の美化へと暴走していく。「美しい〇〇」などと過去の事物や伝統的な事物について言い出したら、危険信号と考えていいだろう。すべてがそうだとは言わないが、安心できる言説とはいい難い。なぜなら「美しい」という感覚の定義がなされないことが多いからだ。「美しい」の厳格な定義とそれを導く厳密な思考は、そうそう簡単にできるものではない。美醜が表裏一体であることですら少なくない。

 考えてみれば、世界中どこでもノスタルジーの影には「男性天国」「力の正義」「権力を背景にした恣意」が必ず見え隠れしている。過去の社会がそうだったのだから当然だろう。文化・学術に背を向けるスポーツ界、前近代的興業システムによる支配体制をいまだに引きずる芸能界、権威主義によって閉塞していることにすら気づかない芸術界、既得権益と利権にがんじがらめの政界、ナンバーワン幻想に囚われて常軌を逸する世界政治、そしてそれらを陰日向に支える大勢の「ついていけない」有権者。

 変化はもう止めることはできない。ついていくしかない。それは100年以上も前に夏目漱石が喝破している。分断の現実と問題点を把握し、対策を考える「変化」もまた早急に求められている。休んでいる暇はなさそうだ。もう世界は、この国は、傷み始めているのだから。