読書感想文マニュアル2016年09月02日 21:40

 小学生の読書感想文が夏休みの宿題の定番となっており、昨今はそのマニュアルまで登場し、いろいろと賛否両論があるようだ。

 ズルを教えるようなものでけしからんという反対論から、書き方そのものがわからないのだから、手引として最適だという賛成論まで。どちらも一理あるが、どちらも大切な視点が欠けているように思える。

 第一に、本を読んでどんな感想を持つかは、読んだ人間の精神活動そのものであり、思想・信条と直結しているものだという点。したがってその感想が客観的にどのような評価をくだされるものであろうとも、他人がどうのこうのと口を挟むべきものでは決してないということだ。個人がどんな本を読んで、どんな感想を持とうと、それに他人が口出しする権利など、絶対にない。読書感想文を宿題として課し、強制力を持って読ませろという事自体が、各自の思想・信条を強制的に発表させる暴力的な行為である。その意味で、読書感想文を自発的に発表するのならともかく、強制的に提出させる事自体が、すでに他人の心を土足で踏みにじる行為である。

 第二に、文章は情報を伝達するためのツールであり、情報の最小限の構成要素は、主語と述語である。つまり、「誰が、どうした。」が書けていれば最低限の体裁は整う。よく言われる5W1Hの6要素は、あくまで報道現場でのノウハウであり、現実的にこの6要素が全て揃わないと情報が成立しないなどということはない。むしろ6要素が揃わない文章が多くて、5W1Hは、現実的には例外だらけである。したがって、感想文なるものの必要十分条件は、「この本は、おもしろかった。」「この本は、つまらなかった。」となる。これで十分感想文として成立しているわけだ。どこぞのなんとか言うコンクールのように、2000字程度などという分量は、情報という観点からすれば蛇足のかたまりである。そんな蛇足のかたまりを低学年や低学力状態の子どもに書けというのが土台無理無体な話だ。マニュアルでもない限り、そんなよけいなことを長々と書くことができる人間はいない。

 第三に、長々とした文章で感想を述べなければならないという縛りは、長々とした文章を書く能力を養うという目的のためにあると考えられる。要は「感想文」という情報ではなく、長文を作成することができる構成力の涵養が主眼だ。その意味で「マニュアル」は有効なものだが、少なくとも「読書感想文」でなければならない根拠など、どこにもない。時事問題を扱って書かせたほうがよっぽど理にかなう。また、文章を書く以前に、「この本は面白かった。」という初発感想に対して、「どんなところが?」「どうして?」という問いを会話ベースで行う事のほうが重要だ。蛇足の塊に存在の必然性をもたせるとすれば、自分の感想を客観視し、その感想を生み出した理由を明確化する以外にない。文章を書くより、感想をインフォーマルに語り、対話を通じて深める作業こそが最優先だ。「どうして」という問いを持つことが重要で、文字に書くことはもちろん、字数が多かろうが少なかろうが、そんなことは後回し。2000字を埋めるのはそれから後の話である。読書感想文をいきなり書かせるぐらいなら、読書感想フリートークに取り組むべきだ。

 第四に、「この本はつまらなかった」という感想がご法度という、明らかに思想統制的なバイアスの問題。課題図書という暗黙の読書対象制限があり、選択肢が非常に限られている場合、その選択肢とソリが合わない人間が多数現れるのは必然だ。また、読書者本人の生活体験や精神状態、学力等によっても読書対象への評価は大きく変わる。どこぞの賢い良い子の偉いお方が「すばらしい」とのたもうた本がみんなにとって「面白い」と思えるかどうか、甚だ疑問である。「この本はつまらなかった。金と時間を返せバカヤロー」と、理路整然と2000字書いた感想文も、きちんと評価すべきなのに、そういったことをして評価されるケースは稀である。もっとも、感想文を強制されなければ、そんな精神衛生上よろしくない文章を2000字も書き連ねることもないかもしれない。クソ面白くもない本を、いやいや読まされて、うんざりするほど歯の浮くような嘘っぱちを書かされるのは、拷問である。マニュアルで外面だけ適当に書き飛ばしていいのであれば、そうするのがよっぽど健康的である。

 第五に、課題図書以外の本で感想文を作成する場合、評価者が読者の選んだ本の内容に対応できないことが多い。評価者が読者の視点に立って、「面白かった」体験を追体験すれば良いのだろうが、現実には高所から見下ろすような視点で、あれこれと読者の嗜好をあげつらい、「つまらない」「くだらない」と切り捨ててしまう。ミステリやSF、ラノベと言ったジャンルには、確かに一般小説とほぼ同様の比率で「つまらない」「くだらない」ものがある(「SFの90%はクズだ、だが、あらゆる小説の90%もクズだ」とは、アメリカのSF作家、シオドア・スタージョンがSFファンの前で語った有名なスピーチの一節だが、最近はマーフィーの法則に「スタージョンの法則」として組み込まれているらしい)。だが、読者がそんな作品を本気で「面白い」と主張するなら、その主張に寄り添い、受け入れるべきだ。それが個人の思想・信条を尊重するということに他ならない。レベルの低い思想・信条であっても、それが立脚点なら、そこからどう伸ばしていくかを考えるべきであり、切り捨てなどもってのほか。切り捨ては評価者の対応力の低さ、度量の狭さ、好奇心の衰退の発現であることもありうる。読書感想文を読んで「くだらない」「つまらない」と思ってしまい、読書者の感想を共有できないのはなぜか。その問いを評価者自身が自分に突きつける厳しさがあるか。その厳しさこそが評価者の資格だ。

 第六に、すばらしいと評価される読書感想文を見ると、大抵の場合似通った内容になっている(だからマニュアルができる)。さらに、マニュアル化できない大きな要素が一つある。それは、読書感想文を書いた本人が、登場人物と同じか類似、あるいはある程度共通した「不幸」を背負っている点だ。読者が本に求めるのは、大なり小なり「不幸」だ。幸せな人間が終始幸せに過ごした話など、だれも面白いとは思わない。この要素は読書感想文でも共通だ。つまり、読書感想文の評価の高さは、作成者自身の不幸に依存する危険性が高いということになる。極論を恐れずに言えば、すばらしい読書感想文は、不幸の暴露合戦となってしまう恐れが高い。読書感想文の評価は、不幸体験の有無に左右され、さしたる不幸がない子どもたち(つまり望ましい生活をしている子どもたち)には、高い評価をのぞむ根拠が薄い。自分の不幸を暴露するといえば、かつて「純文学」とほぼ同義であった「私文学」のフォーマットそのものだ。自分の不幸を公表するのは、よほどその体験が昇華されたか、告白によるカタルシスを求めているか、強靭な精神力を持っているか、はたまたマゾヒスティックな嗜好を持っているかだろう。こうなるともはや「読書感想文」ではなく「読書にインスパイアされた自分語り」である。本人の能力以外の要素が大きすぎて、公平な評価などありえない。

 以上、長々と述べたが、そもそも「読書感想」をコンクールで序列付けること自体が危険極まりない思想操作ではないかと思う。発祥の地では国辱ものとして忌避される(もともと社会の歪みを告発する目的もあったらしい)幼少年虐待小説を「良い子の文学」と称して、マゾヒスティックな従順さを子どもに押し付けている我が国(「僕はもう疲れたよ」と言って死んでいく少年は、天使に迎えられたのではなく、社会が虐待の末に抹殺したのだ!安っぽい感動などクソ食らえ!)で、子どもに「マニュアル化」が可能な、結果ありきの良い子の作文を強要している事実。課題図書の内容の良否や、作成マニュアルの賛否など、本質論にすら成り得ない。

 私は「読書感想文」課題そのものに反対する。
 「自分の読書感想ぐらい、自分で大切に育てさせろ、ばかものめ!」