元気のない若者?2016年05月01日 21:51

 地方から東京に進学しない若者が増えたそうだ。

 当然だろう。学費+生活費を支給できるほど、大半の家庭は裕福ではない。共働きならともかく、さまざまな事情でシングルインカムであったり、父子・母子家庭であったりすればなおのことだ。東京どころか、地元進学も苦しい。賃金より学資の跳ね上がり方のほうが大きいからだ。

 数年前には「留学する若者が減った」と、マスコミも政府もぶちあげていた。曰く「若者に元気がない」「覇気がない」「草食化」「弱体化」云々…

 そんなものは二次的な現象に過ぎない。第一の原因は「そんな金がない」のだ。先立つ「金がない」のに、どうやってない金を使う希望や覇気が出ようか。奨学金などと気の利いたことを言ってはいけない。この国の奨学金の実体は単なる返済猶予付き学資ローンに過ぎない。

 就活だと大騒ぎして、100社以上もの企業に紙切れ一枚ではじき出されてしまうような世の中で、返す当てもなくありもしない金を借金して、無理して地方から東京へ、そして海外留学へ行くなど、余程のことがない限り、尋常の沙汰とは言えないではないか。

 企業が教育コストをケチり、高校へ、大学へ、大学院へ、専門学校へと人材教育をアウトソーシングしたツケが回ったのだ。就職予備校と化した大学で、当てのない借金を背負いながら、保証のない就職予備校生として青春を謳歌せよ…笑止千万とはまさにこのことだ。

「映画クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃」鑑賞2016年05月04日 07:16

 「映画クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃」を鑑賞

 劇場版のクレヨンしんちゃんは、キャラクターギャグの定石を守れば、かなり自由な作品作りが可能で、突っ込んだ作品が多いことはよく知られている。チャップリンの喜劇や松竹のファミリーコメディのような風合いを持っている。ギャグが下品だが、五歳児が喜ぶギャグを考えれば当然。誰だって五歳児の頃はあったし、自分の過去を振り返りながら笑えばよいだけのこと。要するに「野原しんのすけ」は実にリアルに描かれた五歳児ということだ。

 今年は一言で言えば「母」の作品。「父」が子どもへの盲目的な愛情で暴走し、「母」がすべてを包含して局面を打開する。したがって大人側の主導権を握るのはみさえということになる。一昨年踏ん張り、去年も奮闘したひろしは、今回はやや腰が引けた格好だが、相変わらずなりふり構わぬ家族愛を披露して、子どもへの盲目的な愛情を体現している。いつものようにストレートで本質を突く子育て論をさり気なく吐くところも定番。

 おなじみの追っかけっこも健在。子どもが親の愛情を信じつつ、親から少しずつ自立していく姿は、安定感のあるファミリー映画として王道を行く。安心して見ることができ、世代を越えて笑える。かつて良質の喜劇が持っていたフォーマットをみごとに生み出している。生身ではないアニメーションだからこそのバリエーションの豊かさもプラス要因。この作品群は東宝版の「寅さん」的なポジションになっているのではないだろうか。

 ラスト、みさえの大見得を直立不動で聞き、気合の入った返事を返すしんのすけは、実はこの作品の中で最も大きな愛情を支えにした、もっとも自立した人間なのではないだろうか。この作品を見るたびに、凡百の教育論の空虚さ、シンプルな家族の愛情の強さを思う。

石牟礼道子「苦海浄土」読了2016年05月05日 10:42

 小賢しい「文明」の知恵など、この作品の前では意味をなさない。

 土俗的とも言える、清濁併せ呑む前近代世界が、金と文明という小奇麗な書割の世界をつくるために破壊され尽くしていく。悲惨という小賢しい「文明」の産んだ言葉ではもはや語りつくすことができない現実がある。文学などという机上の空論を弄ぶ世界の言葉では、どだい表現不能な世界の破壊を、この作品は表現しようとしている。

 当然、従来の「文学」では太刀打ちできない。しかし、作者は「近代」のことばの力の不足を乗り越え、破壊を訴える前近代からの声を伝える。そこから湧き上がるのは、破壊されても破壊されつくすことのない、生命そのものの叫びであり、究極と言ってもよい悲劇の果てにあってなお消え去ることのない「笑い」である。この「笑い」こそ、近代の「真面目」な「文明」が「不謹慎」だと言って去り、蔑視してきたものではないのか。

 前近代は、浅はかな近代に傷めつけられても、決して滅び去りはしない。やがて地の底からの響きとなり、小賢しい近代を破壊するのではなく、包摂していく。そのような前近代の力を認め、受け入れる力を、近代は持ちえてはいない。ただ稚拙な嘘と思考停止と、見るに耐えないダダこねしかできない。

 近代とは、前近代からあがきだした、大して能もない、わがままでダダコネの洟垂れ小僧に過ぎないのではないか。そう言えば近代の最先端を走る某大国で急速に支持を集めている指導者候補の姿も…

 水俣病という未曾有の人災(そこにはすべての近代人が関わっていることを忘れてはならないし、本質は水俣のみならず、全世界普遍のものだ)を描きながら、どこか暖かな作品である。生命の強さとはそのようなものではないのだろうか。破壊者という敵を殲滅することのみが強さではないのだ。