石牟礼道子「苦海浄土」読了2016年05月05日 10:42

 小賢しい「文明」の知恵など、この作品の前では意味をなさない。

 土俗的とも言える、清濁併せ呑む前近代世界が、金と文明という小奇麗な書割の世界をつくるために破壊され尽くしていく。悲惨という小賢しい「文明」の産んだ言葉ではもはや語りつくすことができない現実がある。文学などという机上の空論を弄ぶ世界の言葉では、どだい表現不能な世界の破壊を、この作品は表現しようとしている。

 当然、従来の「文学」では太刀打ちできない。しかし、作者は「近代」のことばの力の不足を乗り越え、破壊を訴える前近代からの声を伝える。そこから湧き上がるのは、破壊されても破壊されつくすことのない、生命そのものの叫びであり、究極と言ってもよい悲劇の果てにあってなお消え去ることのない「笑い」である。この「笑い」こそ、近代の「真面目」な「文明」が「不謹慎」だと言って去り、蔑視してきたものではないのか。

 前近代は、浅はかな近代に傷めつけられても、決して滅び去りはしない。やがて地の底からの響きとなり、小賢しい近代を破壊するのではなく、包摂していく。そのような前近代の力を認め、受け入れる力を、近代は持ちえてはいない。ただ稚拙な嘘と思考停止と、見るに耐えないダダこねしかできない。

 近代とは、前近代からあがきだした、大して能もない、わがままでダダコネの洟垂れ小僧に過ぎないのではないか。そう言えば近代の最先端を走る某大国で急速に支持を集めている指導者候補の姿も…

 水俣病という未曾有の人災(そこにはすべての近代人が関わっていることを忘れてはならないし、本質は水俣のみならず、全世界普遍のものだ)を描きながら、どこか暖かな作品である。生命の強さとはそのようなものではないのだろうか。破壊者という敵を殲滅することのみが強さではないのだ。