はた迷惑な幻想 ― 2016年09月07日 22:32
世の中、いまだに幻想の世界にどっぷり浸って、現実ではなく記号を見て暮らしている人が無視できないぐらいの数いるようだ。
介護の問題にしても、介護に真っ先に取り組む家族が「あふれる愛情」を持ってあたることを前提にした言説が多いように思う。現実には介護に疲れ果て、文字どおり「心」を「亡」すほど忙しく、追い詰められた家族の精神状態を、「あふれる愛情」などというキレイ事で好転させようなどと、おめでたいにもほどがあるだろう。
介護施設や高齢者施設でも、職業人として首を傾げるような対応をする職員の話はよく聞く。だが、給与が低く、労働条件も厳しく、長時間労働も強いられた中で、モラルを保って働くのは至難の業だ。一般企業にしたところで、低賃金で長時間労働、成績重視などと言われれば、あっという間にモラルハザードを起こしているではないか。
新自由主義は、若くて元気な人間(男に傾く傾向あり)を社会の構成要素として考えている。それだけですでに幻想の世界だ。現実には子どもも年寄りも、障碍を持つ人も、病気の人も存在する。サボって金だけ儲けるやつをバッシングするには新自由主義はいいシステムだったが、それだって要するにぐうたらを養うゆとりがなくなった、つまり世の中全体が「貧しく」なったことの証左に過ぎない。
介護や高齢者の問題は、つまるところ社会全体がそういった人たちを養いきれなくなるほど「貧しく」なっているということだ。それは金だけではなく心も同様。なのにその不足分を、昔豊かだった頃の夢や幻を見て家族に、そして現場に、見返りもなしに供出させる。歪むはずだ。
前政権時代にはっきりしたのは、あるはずだと思っていた金が、実はどこにもなかったということ。いい加減、この国は「貧しい」国だという事実を受け止めなければならないだろう。何かを切り捨てなければ、もう立ちいかない。それは日本だけではなさそうだ。どこの国もずいぶん勇ましく物騒な発言を大声で叫んでいる。
貧すれば貪する。慎ましい日本が称揚されるのは明治初期とよく似ている。あの頃、西欧列強は植民地を貪り、その一方で貧困層の増大とモラルハザードを引き起こし、近代機械戦というこの上なく物騒な行為を勇ましい掛け声とともに行い、人の命を極限まで軽くしてしまった。
われわれの「心」が失われる前に、幻想やナイーブな理想論から脱却して、もっと生身に立脚した新しい理想を打ち立てねば。ネガティブな現実を受け入れ、それを支える豊かさを取り戻さねば。だらけた社会にカンフルを入れるという意味で、新自由主義は効果を発揮した。だが、カンフルはいつまでも打ち続けるものではない。
介護の問題にしても、介護に真っ先に取り組む家族が「あふれる愛情」を持ってあたることを前提にした言説が多いように思う。現実には介護に疲れ果て、文字どおり「心」を「亡」すほど忙しく、追い詰められた家族の精神状態を、「あふれる愛情」などというキレイ事で好転させようなどと、おめでたいにもほどがあるだろう。
介護施設や高齢者施設でも、職業人として首を傾げるような対応をする職員の話はよく聞く。だが、給与が低く、労働条件も厳しく、長時間労働も強いられた中で、モラルを保って働くのは至難の業だ。一般企業にしたところで、低賃金で長時間労働、成績重視などと言われれば、あっという間にモラルハザードを起こしているではないか。
新自由主義は、若くて元気な人間(男に傾く傾向あり)を社会の構成要素として考えている。それだけですでに幻想の世界だ。現実には子どもも年寄りも、障碍を持つ人も、病気の人も存在する。サボって金だけ儲けるやつをバッシングするには新自由主義はいいシステムだったが、それだって要するにぐうたらを養うゆとりがなくなった、つまり世の中全体が「貧しく」なったことの証左に過ぎない。
介護や高齢者の問題は、つまるところ社会全体がそういった人たちを養いきれなくなるほど「貧しく」なっているということだ。それは金だけではなく心も同様。なのにその不足分を、昔豊かだった頃の夢や幻を見て家族に、そして現場に、見返りもなしに供出させる。歪むはずだ。
前政権時代にはっきりしたのは、あるはずだと思っていた金が、実はどこにもなかったということ。いい加減、この国は「貧しい」国だという事実を受け止めなければならないだろう。何かを切り捨てなければ、もう立ちいかない。それは日本だけではなさそうだ。どこの国もずいぶん勇ましく物騒な発言を大声で叫んでいる。
貧すれば貪する。慎ましい日本が称揚されるのは明治初期とよく似ている。あの頃、西欧列強は植民地を貪り、その一方で貧困層の増大とモラルハザードを引き起こし、近代機械戦というこの上なく物騒な行為を勇ましい掛け声とともに行い、人の命を極限まで軽くしてしまった。
われわれの「心」が失われる前に、幻想やナイーブな理想論から脱却して、もっと生身に立脚した新しい理想を打ち立てねば。ネガティブな現実を受け入れ、それを支える豊かさを取り戻さねば。だらけた社会にカンフルを入れるという意味で、新自由主義は効果を発揮した。だが、カンフルはいつまでも打ち続けるものではない。
ミニワットアンプ ― 2016年09月08日 23:09
6AQ5と6AU6を、昔けっこうたくさん手に入れたことがある。
6AU6を3結にして、6AQ5をドライブしてみようとも考えてみたが、7PのMT管4本のアンプは、ちょっと大げさかもしれない。
6AU6を5結にして、初段を、EQアンプでいい感触だったmusesを使って振ってやったらどうだろうと考えだした。もちろん大出力はありえない。せいぜい1W出るか出ないかだろうが、昔の数百mWのラジカセのフルボリュームでも一般家庭ではやかましいのだから、スピーカーさえ工夫すれば、高品位のBGM的には使えるかもしれない。6AU6を2本程度なら、100mA級の電源トランスでなんとかなるのではないか。オペアンプの消費電流など、無視できるほどのものでしかない。
昔懐かし、TANGOのPH-100Sを電源に、なんとか設計できないだろうか。急ぐ話ではなし、懐具合も考えながら、のんびり取り組んでみようかと思う。
初段のオペアンプはもちろんソケット差し替え可にしよう。けっこう遊べそうだ。
6AU6を3結にして、6AQ5をドライブしてみようとも考えてみたが、7PのMT管4本のアンプは、ちょっと大げさかもしれない。
6AU6を5結にして、初段を、EQアンプでいい感触だったmusesを使って振ってやったらどうだろうと考えだした。もちろん大出力はありえない。せいぜい1W出るか出ないかだろうが、昔の数百mWのラジカセのフルボリュームでも一般家庭ではやかましいのだから、スピーカーさえ工夫すれば、高品位のBGM的には使えるかもしれない。6AU6を2本程度なら、100mA級の電源トランスでなんとかなるのではないか。オペアンプの消費電流など、無視できるほどのものでしかない。
昔懐かし、TANGOのPH-100Sを電源に、なんとか設計できないだろうか。急ぐ話ではなし、懐具合も考えながら、のんびり取り組んでみようかと思う。
初段のオペアンプはもちろんソケット差し替え可にしよう。けっこう遊べそうだ。
「ブラックアウト」「オール・クリア」読了 ― 2016年09月09日 23:28
コニー・ウィリスの大長編、「ブラックアウト」と「オール・クリア」を読了。
短編「見張り」を皮切りに、オックスフォード大学史学科が運用しているタイムトラベルシステムで、学生が歴史観察に取り組むという設定のこのシリーズ、最初の長編「ドゥームズデイ・ブック」がヘビーな傑作、その次の「犬は勘定に入れません」は打って変わってコメディ。そして今回はこれまでにないボリュームの大長編。読了にはずいぶん時間がかかった。
主な舞台は第二次大戦中のイギリス。ナチス・ドイツが打ち込むV1、V2のロケット攻撃とルフトヴァッフェの空爆に苦しむロンドン。そこで戦時下を過ごす市井の人々の姿の何と生き生きとしたこと。極限状態の中でも日常を全力でつなぎ留め、健気に勝利を信じて生きている姿の時に凛々しく、時におかしく、時に悲しいこと。
コニー・ウィリス作品の常套である、はぐらかし、焦らし、思い出せないじれったさ、結論にたどり着くまでの逡巡といったサスペンスも満載だ。史学生が過去から帰還できなくなり、右往左往しながら追い詰められていく前半が「ブラックアウト」、そしてすべての謎が次第に収束し、後半一気に解決、そしてラストの衝撃的な発見。ハインラインの「夏への扉」を思わせるようなラブコメ的展開もうまいし、タイムトラベル以外の、人の思いを時を超えて伝えようとする意思もまた感動的だ。
新☆ハヤカワ・SF・シリーズでも最大ボリュームの一冊本で観光された「ブラックアウト」、ついに1、2の2冊で刊行された「オール・クリア」、現在は文庫化もされている。もともと原書でもあまりに長大なので大幅カットの上、分冊で発表されたのだが、翻訳も当然相当のボリュームであり、その物理サイズを観ただけで腰が引ける人も多いだろう(もちろん、お値段もそれなりだ…)。「ブラックアウト」では、各章の見出しの年月日に留意しないと、入り組んだ時系列で混乱を起こしかねない。そういうハードルは確かにあるが、そのハードルに見合うだけの内容が、この作品には確かにある。作者も、読者も、作中のロンドン市民同様、先の見えなくなりそうな苦しさを超えた時、すばらしいものを手に入れられる。作中で主人公の一人、アイリーンがVEデイ(イギリス戦勝記念日)の感動をラスト近くで語るが、それは彼女一人の感動ではなく、ともにラストまで読み続けた読者一人ひとり、そして完成までに8年もの歳月を書けたコニー・ウィリス自身の感動でもあるだろう。
短編「見張り」を皮切りに、オックスフォード大学史学科が運用しているタイムトラベルシステムで、学生が歴史観察に取り組むという設定のこのシリーズ、最初の長編「ドゥームズデイ・ブック」がヘビーな傑作、その次の「犬は勘定に入れません」は打って変わってコメディ。そして今回はこれまでにないボリュームの大長編。読了にはずいぶん時間がかかった。
主な舞台は第二次大戦中のイギリス。ナチス・ドイツが打ち込むV1、V2のロケット攻撃とルフトヴァッフェの空爆に苦しむロンドン。そこで戦時下を過ごす市井の人々の姿の何と生き生きとしたこと。極限状態の中でも日常を全力でつなぎ留め、健気に勝利を信じて生きている姿の時に凛々しく、時におかしく、時に悲しいこと。
コニー・ウィリス作品の常套である、はぐらかし、焦らし、思い出せないじれったさ、結論にたどり着くまでの逡巡といったサスペンスも満載だ。史学生が過去から帰還できなくなり、右往左往しながら追い詰められていく前半が「ブラックアウト」、そしてすべての謎が次第に収束し、後半一気に解決、そしてラストの衝撃的な発見。ハインラインの「夏への扉」を思わせるようなラブコメ的展開もうまいし、タイムトラベル以外の、人の思いを時を超えて伝えようとする意思もまた感動的だ。
新☆ハヤカワ・SF・シリーズでも最大ボリュームの一冊本で観光された「ブラックアウト」、ついに1、2の2冊で刊行された「オール・クリア」、現在は文庫化もされている。もともと原書でもあまりに長大なので大幅カットの上、分冊で発表されたのだが、翻訳も当然相当のボリュームであり、その物理サイズを観ただけで腰が引ける人も多いだろう(もちろん、お値段もそれなりだ…)。「ブラックアウト」では、各章の見出しの年月日に留意しないと、入り組んだ時系列で混乱を起こしかねない。そういうハードルは確かにあるが、そのハードルに見合うだけの内容が、この作品には確かにある。作者も、読者も、作中のロンドン市民同様、先の見えなくなりそうな苦しさを超えた時、すばらしいものを手に入れられる。作中で主人公の一人、アイリーンがVEデイ(イギリス戦勝記念日)の感動をラスト近くで語るが、それは彼女一人の感動ではなく、ともにラストまで読み続けた読者一人ひとり、そして完成までに8年もの歳月を書けたコニー・ウィリス自身の感動でもあるだろう。
「無双の花」読了 ― 2016年09月11日 06:18
葉室麟「無双の花」を読了。
筑後柳川の大名、立花宗茂の一代記。手堅い運びの小説で、人徳によって周囲から支えられつつ立つ武将の姿がすっきりと立ち上がる。
終末近く、宗茂は「世は努めることを止めぬ凡庸なる力によって成り立っておるかと存じまする。」と徳川秀忠に語るシーンがある。「オール・クリア」にも「わたしたちもみな、全員が、“みずからの分”を尽くさねばなりません。なぜなら、わたしたちの行動を通じて、この戦争に勝利が得られるからです。」という言葉がある。
ジャンルも国も、作者の性別さえ違うが、世界が名もない庶民の日常で支えられていることは世界中で共通なのだ。
筑後柳川の大名、立花宗茂の一代記。手堅い運びの小説で、人徳によって周囲から支えられつつ立つ武将の姿がすっきりと立ち上がる。
終末近く、宗茂は「世は努めることを止めぬ凡庸なる力によって成り立っておるかと存じまする。」と徳川秀忠に語るシーンがある。「オール・クリア」にも「わたしたちもみな、全員が、“みずからの分”を尽くさねばなりません。なぜなら、わたしたちの行動を通じて、この戦争に勝利が得られるからです。」という言葉がある。
ジャンルも国も、作者の性別さえ違うが、世界が名もない庶民の日常で支えられていることは世界中で共通なのだ。
夏映画 ― 2016年09月12日 22:39
今年の夏映画は、どうやら「シン・ゴジラ」が稼ぎ頭、夏から秋にかけては「君の名は」がダークホース的大ヒットとなりそうだという。
ダークホースは、ある意味失うものが何もない状態からのスタートなので、身軽に、自由に制作できる部分が多いだろう。
だが、「シン・ゴジラ」のように、過去30作にまとわりついた手枷足枷、妙なしがらみや観客の先入観、おまけにこれまで「子ども」を意識するあまり、無節操な「子供だまし」を連発してしまったゴジラ映画でヒットを飛ばすのは、ある意味大変だっただろう。
「子供だまし」を喜ぶ観客もいる。ゴジラは「子供だまし」であることに意義があると考える観客もいる。そんな観客からは「シン・ゴジラ」は確かに酷評を受けるだろう。だが、「子供だまし」の部分をぶち壊し、そのことで背を向ける従来の観客以上の新しい観客を、「シン・ゴジラ」は生み出すことに成功した。世阿弥ではないが、「見巧者」に認められることで、作品は一皮むけたといえよう。興行は送りてと見る側の共同作業だ。どちらが「拙者」でも、作品はそっぽを向かれる。
鳴り物入りのハリウッド実写は、その殆どが続編だが、興行は軒並みダウン。ただ、この国ではシリアスなハリウッド実写映画も、プロモーション段階で、起用された芸人の作品とは乖離した、寒々とした「芸」らしきものでCMしたがっている。作品の世界を伝えるのではなく、日頃おちゃらけた言動を売りにしている人物が、ただのノリでCMをしている。正直言って、せっかくの作品を宣伝するのではなく、ぶち壊している。それぐらいなら「シン・ゴジラ」のように、一切秘密主義の方がよほどマシである。
ダークホースは、ある意味失うものが何もない状態からのスタートなので、身軽に、自由に制作できる部分が多いだろう。
だが、「シン・ゴジラ」のように、過去30作にまとわりついた手枷足枷、妙なしがらみや観客の先入観、おまけにこれまで「子ども」を意識するあまり、無節操な「子供だまし」を連発してしまったゴジラ映画でヒットを飛ばすのは、ある意味大変だっただろう。
「子供だまし」を喜ぶ観客もいる。ゴジラは「子供だまし」であることに意義があると考える観客もいる。そんな観客からは「シン・ゴジラ」は確かに酷評を受けるだろう。だが、「子供だまし」の部分をぶち壊し、そのことで背を向ける従来の観客以上の新しい観客を、「シン・ゴジラ」は生み出すことに成功した。世阿弥ではないが、「見巧者」に認められることで、作品は一皮むけたといえよう。興行は送りてと見る側の共同作業だ。どちらが「拙者」でも、作品はそっぽを向かれる。
鳴り物入りのハリウッド実写は、その殆どが続編だが、興行は軒並みダウン。ただ、この国ではシリアスなハリウッド実写映画も、プロモーション段階で、起用された芸人の作品とは乖離した、寒々とした「芸」らしきものでCMしたがっている。作品の世界を伝えるのではなく、日頃おちゃらけた言動を売りにしている人物が、ただのノリでCMをしている。正直言って、せっかくの作品を宣伝するのではなく、ぶち壊している。それぐらいなら「シン・ゴジラ」のように、一切秘密主義の方がよほどマシである。
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