全国学力テストで校長名を公表2014年09月05日 22:43

 静岡県知事が小学校の全国学力テストで、全国平均を上回った学校の校長名を公表したという。

 その理由が「学力の問題は先生の責任であるとともに功績でもあることを理解してほしい。テストは受ける以上、結果は出すべきだ」というものだったという。

 なんとも首を傾げる理屈だと思う。テストの成績は、答案用紙に正解を記入したものの功績こそが第一。つまり子供こそが功績をあげた第一人者ではないのか。もちろん結果を出したのも、教師ではなく子どもたち自身だ。教師は子どもたちに結果を出すためのチャンスを与えたに過ぎない。

 立派な授業をしたから、子どもたちが答案用紙に正解を書くとは限らない。そんなに甘い話が通用するなら、全国統一の「学習指導要領」に則って、右に倣えで授業をしているどの教員からでも平等に「正解を書く」チャンスを与えられているはずの子どもたちは、みんな高得点を取るはずだ。だが、現実に同じ授業を受けていても、子どもたちの答案の得点は同じにはならない。学力は啐啄同時が基本。教師だけがテストでの高得点の功績を得られるはずはなく、成績は子どもたちに強く依存する。(もちろん教員の側に問題があっても成績は出ないが…)

 ましてや校長を顕彰するなど、お門違いではないかと思う。まず顕彰するなら、見事な学力を身に付けることが出来た子どもたちこそが顕彰されるべきだし、子どもたちに学力を身に付けるチャンスをきちんと与えた現場教員が次に顕彰されるべきだ。もっとも、子どもに学力を身に付けるチャンスを与えるのは教員の職責なのだから、これは当たり前の仕事をしているに過ぎない。せいぜい「慰労」と言ったところで十分だろう。

 校長は管理職として、教員が「子供に学力を身につけるチャンスを与える業務に教員を専念させることができる経営能力」を顕彰…いや、これも校長の職責なのだから、やはり「慰労」止まりだろう。

 当たり前の職責を果たした人間を、ことさら「顕彰」する意味は、当たり前の職責を果たす人間が希少性を持っているということに他ならない。ないしは「当たり前の職責」を果たすことが非常に困難な状況がある場合も同様。これは任命権者に大きな問題がある状態と言える。公立学校の教員の最高任命権者と言えば…

 学力を身に付けるのは「子ども自身」だ。それを基準に「校長」を顕彰する、つまり人事評価するという発想は、子どもの学力を校長や教員の人事査定の道具にすること、つまり教育の視線が子どもではなく教員の評価に向いていることの証左だ。「うちの学校の生徒の成績がいいのは、教員が偉いからだ」なんて、こんな傲慢な話などありえない。「うちの学校の生徒の成績がいいのは、生徒が素晴らしいからだ」となるべきだ。今回の県知事の見解の根底には、教育に対する大きな倒錯があるように思えてならない。

 吉田松陰は明治維新の中核を担う人材を多く教育した教育者だが、当の本人は明治維新を見ることなく獄死した。教育者が第一線を去り、この世を去った後にこそ、その教育を受けた世代の真価が問われ、その延長線上に教育者の真価が問われる。教育は国家百年の計であり、たかが教員の勤務年数内という短期間に過大な評価や顕彰などが行われるべきではない。このような内輪の我ぼめは、大企業病や官僚主義の典型的な症状でもある。

 静岡県知事のこのような浅薄な考慮による顕彰に最も迷惑しているのは、顕彰された校長自身ではないのだろうか。文部科学省を全面的に応援しているわけではないが、今回の文部科学省の怒りは、メンツ云々を考慮に入れなければ、至極もっともなものだと思う。