大学奨学金について2016年02月21日 14:42

 大学奨学金を返せず、自己破産せざるを得ない若者がいるという。

 企業が終身雇用制度を放棄し、目の前の人件費削減に血道を上げた結果、職業人教育を行う場所はすでに日本から消え去ったと言ってよい。
元来、大半の大学はあくまで学問・研究機関であって、職業教育訓練校ではない。医歯薬学部や教員養成過程など、一部の特殊専門職に携わる志望者の教育に当たる部門以外は、職業人教育を主たる目的とはしていない。大学卒業者に職業人としての資質を求めるのは、ラーメン屋に入ってステーキを食わせろと言うのと同様の無理難題だ。

 だが、企業は人材を選考する能力もまた失っている。というより、従来就職後に研修という形で自前で職業人を育成していたのだから、入ってくる人材は「研修」を受け入れ、言うことを聞く「良い子」でありさえすれば良かった。12年間も素直に「言うことを聞く良い子」であれば、大学に入れるというシステムであれば、大学卒業が企業の求人の最低ラインと言って良かった。それを自分でぶち壊しておいて、人材の選考に四苦八苦し、エントリーシートなる形骸化した文章を就職希望者に書かせて一次選考と称している。すでに「エントリーシートの書き方」などというノウハウが流通している昨今、エントリーシートのほとんどがフォーマット通りで似たりよったりになるのはやむを得ない。そして「選考時間が取れない」などと言っているのだから、笑止千万。自業自得である。

 学力がなくても、元気であればよい、という求人もある。大学に行かなくても職があるという意見もあるだろう。しかし、元気であればよいというレベルの高校生の学力のあまりの低さに、求人を絞ったのも企業の方だ。学力を軽視し、部活動と称する肉体訓練を優先する風潮の果てに、モラルの低下、学習意欲そのものの否定、さらには肉体への過負荷による授業中の居眠り、体調不良、身体の故障などが続発しているのは、すでに数十年前から知られている。保健室の常連は、ずいぶん以前から実は部活動参加者である。いまだに体罰体質から抜け出せないスポーツ指導の世界で、モラルが高いなどと言うのは欺瞞以外の何物でもないだろう。試合中に子どもたちがエラーをすると「死ね!」「迷惑だ!」などと喚く指導者が珍しくないと聞くと、虫唾が走るし、スポーツ全般に対する信頼もなくなる。身体のコンディションも低下し、モラルも低下すれば、学習など、とてもできたものではない。さらに、海外からの労働者のほうが人件費が安い。機械力も導入される。現場労働の国内人材のニーズは急激に低下する。留学生を劣悪な賃金・労働環境でこき使うようなシステムが摘発されて、解散に追い込まれた留学生向け教育機関が報道されていたのだから、学歴が低い国内の層の労働条件や求人条件は、決していいとは言えない。かつての「中流」生活を求めるなら、大学は進学せざるを得ない場所となる。それでも「就活」「オワハラ」など、常軌を逸したとしか思えない事象が当然のように行われているのだから、正規雇用はまだまだ難しい。

 ところが、大学の授業料はどうかといえば、国は国公立大と私立大の学費に格差がありすぎるということで、国公立大の学費を「釣り上げる」という愚挙に出た。私立大の授業料を「下げる」のではない。そして、国公立大の授業料が「上がる」と、私立大も授業料をそれに合わせて「上げた」。
 大学進学率が40%程度であった当時ならともかく、今や大学・専門学校も含めた進学率が70%にもなろうかという現在、このような授業料是正はナンセンスということになるだろう。かつては大学・専門学校への進学者は少数派であり、言ってしまえば「賢い奴が勝手に行くんだから、カネぐらい自分で払うのが当たり前」という考えも成立しなくもなかっただろう。だが、それはすでに遠い昔の話。ましてかなりの企業が大卒を基準に求人を考え始めている以上、授業料を「上げて」水準を合わせるなどというのはあまりにナンセンスだし、結果的に授業料全体の上昇を引き起こしたのだから、いずれにせよ愚策としか言いようがない。

 この国の奨学金は他の先進諸国に比べ、給付型が異常に少ない。別に奨学金をすべて給付にする必要もないだろう。国公立大学の授業料を、給付奨学金にすべき金を回して引き下げ、私立大にも授業料削減とそのための予算措置を拡充すればよい。現に私立大の中には、学生の成績に応じて授業料を全額ないし半額免除する制度を導入しているところが多い。こういう制度を利用できる優秀な学生は、下手な国公立大学で年間50万以上の授業料をむしられるよりずっとリーゾナブルに学究生活を送ることができる。

 1970年ごろ、国公立大学の授業料は年間12000円、現在の物価にスライドさせても39000円程度。1980年でも国公立大学の授業料は年間180000円、10年での跳ね上がり方は愕然とするほどだが、それでも現在の物価にスライドさせれば、220000円強だ。今や国公立大学の授業料は年間540000円超。

 世間の多くの人々は1970年代〜1980年代の授業料をイメージしているのではないだろうか。とんでもない。1970年頃のラーメン1杯の平均価格が100円、現在が約600円。せいぜい6倍程度の物価上昇なのに対して、国公立大の授業料は、1970年から現在まで、なんと45倍。1980年から見ても、当時のラーメン1杯の平均価格は300円。せいぜい2倍なのに対して、授業料は3倍。1970年〜1980年の間に、ラーメンは3倍の上昇なのに、授業料は15倍も跳ね上がった。教育の経済面における機会均等はすでにこの頃から怪しげだったと言える。だからこそ奨学金が必要になった。というより、奨学金がないと、とてもそんな学費は捻出できない。しかしそれも借金。そして終身雇用の崩壊によって返却担保が失われている。アルバイトでなんとかやりくりなどといういうが、就活が前倒しとなれば、その分学究時間は圧縮されるので、時間のゆとりのある学究生活は難しい。そして、特に理系を中心に、授業や実験などのスケジュールでアルバイトの時間が取りにくい実態がある。さらに大学移転によって周囲の商業圏が変化し、アルバイト先にも不足する大学が現れ、さらにはブラックバイト問題。学生がアルバイトすること自体が、すでに学業の妨げにしかならない現状だ。そして、移転した大学の周囲の住居は多くが新築で、田舎なのに家賃も高い。通学も過疎地域となれば不便だし、費用もかかる。郊外に移転した、学生街のない大学に通うと、生活費も大きな負担だ。

 奨学金の返済を問題にするまえに、奨学金が必要とならない授業料の設定がまず先決だ。企業も終身雇用を崩壊させた以上、自前での新たな人材の育成・研修の方法を開発しなければならない。いいとこ取りは許されない。大学は地金を磨くところであって、実用的なチューンは受益者である企業が背負うべきものだ。

 それではグローバル化に勝てない。甘いことを言うな。そんな企業側の声が聞こえてきそうだが、それこそ企業の甘えだろう。人間を消費財のように考え、コストパフォーマンス優先で人材を得ようとすれば、必ず人材は枯渇する。企業の決算はせいぜい四半期単位の積み上げだろうが、人生の決算は数年〜数十年単位なのだ。グローバルなどという空間スケールを謳うのなら、人生80年の時間スケールぐらい謳ってほしいものだ。