「戦闘妖精雪風」再見2023年07月25日 15:45

 「戦闘妖精雪風」OVAを再見。全5話一気に、と言っても長めの映画1本分程度だ。

 原作2作め途中での制作だったため、当然エンディングは違っているし、作品解釈にも違いがあるが、それはそれ、これはこれだ。原作の更に先を読んでいると、それはそれで面白い。

 まず、ロンバートの扱い。アニメ版はトマホークと同じで、いい役回りに変更されている。ちょっとディック的な匂いも感じる設定だ。

 零に対するブッカーの感情は、原作とは違い、どちらかというと抑えたBL系であることが明瞭なのだが、なにせ零自身が他人に対して無関心な存在なので、永遠の片思いの状態であることが見るものの共感を繋ぎ止めている。クーリィにはしっかり見抜かれているのだが。

 最終話では零とエディスの距離が色んな意味で接近している。原作ではビールを飲みながらバカップル的な対話をする二人なのだが、OVAではそのあたりをさらっと、しかし効果的に表現している。

 リン・ジャクソンのかわいいおばさんぶりもいい。アニメには中年女性があまり登場しないのだが、この作品ではそういう女性たちがしっかりと描かれている点も特筆できる。原作ではジャクソンがクーリィと理解し合い、互いにジャムと戦う仲間として認識し合うシーンが後に登場するが、このOVAはそういう展開を十分に支えきれている。

 エピソードの選択が秀逸なのも注目だ。原作1作めの第3話がこの作品の最初のターニングポイントなのだが、それを中盤に入れ込み、後半の流れの伏線を作り上げるのは見事。また、第1話後半の看護師のエピソードも小ネタながら効いている。他人には無関心だった零が、次第に他者を意識し始める段階をきっちり踏んでいるのも好ましい。

 キャラクターデザインには賛否あるだろう。確かに今の原作の流れでは、このOVAの繊細なイメージは合わないように思える(OVAの零が伊歩と渡り合えるかどうか…)。だが、このOVAの中だけであれば受け入れることは十分可能だ。

 ラストシーンは完全にOVAのオリジナル。だが、ブッカーのブーメラン、ジャクソンの語り、そして抜けるような青空、見事だ。原作4作目ラスト、クーリィによる強制休暇のときの空は(フェアリイ星なので、二重太陽で空も様相は違うのだが)、きっとこんなふうにのどかなのだろう。


「睡蓮の人」を観る2023年02月14日 20:31

 「睡蓮の人」を観る。2000年の作品。製作は村田朋泰、16分のクレイアニメ。

 一人暮らしらしい初老と思われる男性が、おそらく死別したと思われる妻を思い出すという話。「思われる」と表現するのは、何の明確な説明もないからだ。セリフもない。静かな音楽と効果音と、男性のいびきとため息のみ。

 男性の一人すみかの住まいの佇まいが、古く、少し男やもめぐらしでだらしなくなっている風情をリアルに表現している。もちろんクレイ人形に合わせたミニチュアなのだが、絶妙の傷みっぷり。そこに注ぎ込む光の美しいこと。

 ゆったりとした不思議な時間が流れる。そしてラスト、この話全体が本当に現実だったのか、それとも男性の夢の中だったのだろうか、それすら区別がつかなくなるような静かな終わり方。

 どことなく凄みさえ感じる映像作品。16分は短いが、充実した作品時間だと感じる。

「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を観る2023年01月13日 21:06

 「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を観る。1984年、押井守監督・脚本。

 全「うる星やつら」映像作品中でも最も異色。原作の雰囲気や肌触りとはかけ離れた不穏でダークな空気が横溢しているが、無限ループする時間、時間に対する哲学的概念、永遠にすれ違いながらも、強固になり続けるという、一見矛盾したような恋愛感情。原作の根底にうごめく無意識の沼をえぐり出すような作品。久しぶりの再見で感じたのはそういう感覚だった。

 この作品では、あたるに無類の浮気者であることの奥底にある真理を独白させている。浮気は自由であることの証、そしてその自由は彼の愛情の確かさの証の代償である。ラムへの愛情が責任や惰性に陥ることをあたるは恐れ、その純粋さを保つためにラムから自由でいたい。自由意志でラムを愛し続けたいために、ラムの束縛から逃れ、浮気三昧に走るのだが、その中心には常にラムがいる。身勝手といえば身勝手だが、究極のロマンチストであり、厳格なリアリストでもある。そんな彼が夢の中の安住という「束縛」でラムを愛することを強制されることは耐えられないだろう。あたるは愛は強制ではなく自発でなければならないと考えている。まるで漱石の「こころ」の先生のようだ。

 一方ラムは、あたるや自分の周りの人びととの幸せな生活をいつまでも続けたいと願っている。あたるの愛を確かめるために、あたるを独占したい、そして平穏で楽しい日々を永遠に守りたい。たとえそれが夢であっても。サブタイトルがラムのすべてを表している。ラストの「責任取ってね」は、一見リアリストであるように思えるが、実は「ドリーマー」であるラムを的確に言い当てた一言だろう。

 原作ラストの、互いの愛情を否定し合うようでありながら、実は永遠の愛を誓っているあの裏腹な会話を、この作品はすでに具現化していると言っていいだろう。先行作品へのオマージュやシュールな演出と、原作コンテンツを自由に使いながらディープな世界を展開するのは、この後のアニメコンテンツ、とくに「クレヨンしんちゃん」劇場版などにも引き継がれている。音楽も秀逸。

 ラブコメの本当のキモである、恋愛に対する深い洞察をきちんとアニメーションの中に落とし込んだ名作であり、現代のTVにあふれかえる凡百のラブコメドラマよりも遥かに深い作品だ。

「平家物語」(アニメ)を観る2022年03月28日 21:06

 アニメの「平家物語」を観る。話題になっていたが、全11話がすべて配信されたので、一挙にまとめて観る。約240分。

 膨大な叙事詩でもあるオリジナルの平家物語をそのままではとても11話にはおさまるはずがないし、全体も散漫なものになりがちだが、そこに「びわ」という琵琶弾きの少女をオリジナルで設定し、視点キャラクターに据えているのが功を奏している。

 びわはオッドアイの持ち主。右目は青く、右目だけで見ると、見るものの未来が見えてしまう。そんな彼女が平家一門の未来を見てしまい、それを平重盛に告げようと重盛邸に忍び込む。一方、重盛もまたオッドアイの持ち主という設定。彼の左目は明るいブラウン。左目だけで見ると、死者の魂が見えてしまう。それを怖れ、邸中を灯籠で照らす重盛。

 びわと重盛はこの共通点で惹かれ合い、孤児のびわは重盛に引き取られ、重盛一家と共に過ごし、平徳子とも打ち解ける。ここで物語の主軸が重盛一家と徳子に絞られていく。

 いっぽう、びわはおそらく人外の存在のようなもの。重盛の子どもたちは次第に成長し、大人に、夫に、妻に、父に、母に、そして武将に、尼になっていくが、びわはずっと子供の姿のまま。当然びわの持つ琵琶は琵琶法師、そして平曲を暗示するのであって、彼女は平家一門の存在の証を背負う表象として機能する。

 びわの語りは平家一門がこの世にあって生き、死んでいった証であり、その魂の鎮魂の祈りでもある。びわの語りは徳子が壇ノ浦の後助けられ、大原で建礼門院として平家一門の菩提を弔う祈りの日々も背負っている。びわが男の格好をした女児であることは、武将としての平家、その冥福を祈る建礼門院の存在を受け継ぐ者として秀逸な設定だろう。

 語りの視点は時折挿入される、白髪おすべらかしの成長した(そしておそらく視力を失った)びわの琵琶語りで回想モードに切り替わる。、すべてを俯瞰し、すべてを見据え、変えることのできない未来を受け入れ、ただ語るスタンスを際立たせる。

 オリジナルの「平家物語」は、軍記物とは言え、繊細な心理描写や風流、美意識が強く表れている。平家一門も、源氏の武者も、よく笑い、よく泣き、よく戦い、よく苦しむ。そういった部分をこのアニメはよく引き出している。「平家なり太平記には月を見ず」の句の「月」が美しいアニメだ。

 こういうアニメをいきなり、深夜にぶつけてくるのだから、フジテレビも侮りがたい(それ以外の時間帯とはクオリティに差がありすぎる気もするのは私だけか?)。

「鬼滅の刃」を観る2020年01月07日 23:14

 最近人気の「鬼滅の刃」を観る。

 配信で第一話から後追い視聴できるので、当然第一話から数話を観た。かつてはありえないようなことだ。便利な世の中である。

 一家惨殺のシーンを観ると、北海道の熊害が下敷きになっているのだろうかだの、ストーリーの骨子が「鋼の錬金術師」と似ているだの、余計な知恵が頭をもたげるのは、年を取った弊害かもと苦笑いしながら、けっこう楽しめた。