ゆっくり読書2023年09月04日 20:43

 仕事の都合でぽかんと平日に休業が飛び込んできた。持ち帰りの仕事もなく、特に急ぎでやらなければならない家の用事もない。

 まだまだ暑いので日中は外出も億劫だ。ということで、久しぶりに日中は読書三昧。

 途中まで読んでいたタルコフスキー映画の分厚い評論を、すっかり視力の落ちた(特に右目)目にしっかり老眼鏡をかけ、じっくり読む。時折眠気が来る(おそらく眼精疲労が答えるのだろう)とうとうとしながら、そしてまた目を覚まして続きを読む。

 マイペースでまったりと。購入した本だから、読み上げる期限もない。のんびり読んで半分ほど。こういう贅沢な読書は久しぶりだ。

 問題は…タルコフスキー作品が見たくなってしまうこと。ほとんどの作品は手元にセルや録画BDがあるのだが、たった一作、「ストーカー」だけがない。BDも買い損ねた。一度劇場で観ただけ。かんたんに観ることができない分、無性に観たい。


「教育虐待」を読む2023年08月11日 16:18

 石井光太著「教育虐待 子供を壊す『教育熱心』な親たち」を読む。

 ハヤカワ新書の第一期の6冊の中で、もっとも硬派な一冊ではないだろうか。国語教育から無視され続ける早川書房から、これほど直球勝負の新書が出たことに、矜持のようなものも感じてしまう。

 暴力によって子供に教育を強制する。椅子に縛り付けて勉強させるなどという話は私も実際にそういう経験をした人から直接聞いたことがある。国立大を卒業し、公務員として働いているその人物は、縛られてまで勉強を強要されたことを「今にして思えばありがたい」と語った。それを聞いて言い知れぬおぞましさを感じたのを今でも忘れられない。

 罵倒・暴言・挙句には刃物での脅迫、もうここまでくれば犯罪そのものだが、虐待している本人は自分も同じようにされたのだと言う。社会的成功者はそのような虐待が自分を成功させたのだと勘違い(その結果IT敗戦を引き起こしているのだが)し、社会的に成功していないと考えている者は、自分の失った成功を子供に求める。「お前のためだ」と言いながら、実は自分の願望を充足させているという側面には気づかない。その結果うまくいったと思われている偶像がこの国にはスポーツの世界で存在している。そう、「星一徹」である。日本の戦後の野球文化、スポーツ文化ががこの与太話に大きく影響されていることは言うまでもない(女子スポーツはもっと露骨で、「だまって俺について来い」と強権をふるい、結果が出たからといって自分が巨大な権力を持っていると勘違いして晩節を汚すことになった人物もいた)。

 学校でも「国公立大に何人合格させた」「東京大学に何人合格させた」などとふざけたことを言う連中が多い。受験会場にいって答案用紙に正解を書くのは受験生であって、いくらそれまでに教育していようが、合格するのは受験生であって、教員ではない。また、そういう風潮を毎年煽る週刊誌もある。炎天下で拷問のような環境での野球を主催するのも、教育問題に取り組むと標榜しながらも、その問題や歪みの根底である学歴社会を増長させているのも、どこかで聞いたことのある新聞社であり、民法TVのキー局である。

 親と子がそれぞれ現実とは違うバラバラの妄想をみつめ、視線すら合わせることなく過ごす家庭。すでに「人」の集団ですらない。そこにあるのは記号に過ぎず、記号である以上、自分に都合のよい使い方ができなければ排除する。そして力のある記号は力のない記号を圧倒する。「悪貨は良貨を駆逐する」そのものだ。

 全編、慎重に論を勧めながら、上記のような寒々しい現実が見えてくる。もう一度、記号ではなく「人」を見る家庭が本当に必要なのだろう。「人権」という記号ではなく、その根底にある「人」を見ること。それなくしてはあらゆる記号は刃になってしまう。

 エピローグにある
  ―私を見てほしかった。
  ―認めてほしかった。
  ―褒めてほしかった。

この言葉は、重い。自分の都合のよい記号ではない「人」としての子供を見ること、認めること、そして褒めること。薄っぺらい単一価値観しかない人間にはこれほど困難なことはない。そして、それができる力こそが本当の「学力」なのだろう。そのためには「自己否定」「自己破壊」「自己再生」「自己創造」の覚悟が要る。

本が高騰!2023年06月23日 21:54

 劉慈欣の短編集「円」が文庫化されたので購入。グレッグ・ベアの中編2作が合冊になったハードカバー本「鏖戦/凍月」も購入、そして朝鮮王朝を舞台にしたスチームパンク連作集「蒸気駆動の男」も購入。

 しめて6600円+税!

 丼勘定として、1冊2200円の計算になる。かつて「想像力と数百円」なんてキャッチフレーズがあった本も、すでに「想像力と数千円」の時代に突入。なかなかつらい…


「音楽は自由にする」を読む2023年06月04日 16:44

 「音楽は自由にする」を読む。坂本龍一が2009年に発表した自伝の文庫化。

 示唆に富む内容が多かったが、おそらく聞き書きが基本なのだろう。非常に読みやすい。注も充実しているので、YMOすら知らない若い世代にも向いているだろう。

 東京芸大の作曲科に入学しながら、美術科の方に魅力を感じ、またそちらのほうが最先端の音楽に明るい人材が多かったという内容は大きな示唆に富んでいる。芸術にせよなんにせよ、アカデミズムに取り込まれると先端や最新の動きから切り離されてぬくぬくと過去の資産にあぐらをかき始めてしまう。そしてそんな安寧という名の惰眠を貪る連中をよそに、世界はどんどん先に進んでいく。坂本が魅力を感じた少ない芸大の教師たちもまた、先端を走り、アカデミズムの外でしっかりと地保を固めた人材というところも面白い。

 人生の大きな転機は出会いである。これもこの自伝で顕著に見えるところ。YMOも、メリー・クリスマス・ミスター・ローレンスも、そしてラストエンペラーも、出会い(そして困難)がなければ生まれなかった。そして、狙ったものはうまくいかず、無心になったときに何かがやってくるというのも興味深い。

 含羞の人なのだろう。ときに過去の自分を露悪的に表現することもあるが、嫌味がない。というより、自分の未熟さや傲慢さを的確に把握し、ブレることなく指摘しているのだから、あざとさや飾りっ気が感じられない。トークが苦手らしいのもFM放送で知っていたが、過去の自分に対する厳しい目、どこか常に自分を突き放している冷静さのようなものが言葉を重くしていたのかもしれない。

 どこか自己否定があり、人間や社会への否定のスタンスがあった時代から、次第にそれを受け入れ、てらいもなく表現できるようになった時点でこの自伝は生まれたのだろう。

 端々に重い指摘を軽やかに提示した自伝。

「映画を早送りで観る人たち」を読む2023年05月06日 21:38

 「映画を早送りで観る人たち」を読む。

 著者は「映画を早送りで観る」ことを職業上経験し、その結果として否定的な立場に立っている。だが、この本では確かに随所に否定的な表現は並びはするが、「映画を墓贈りで観る」ことを選ばざるを得ない状況と、そこに置かれた人たち(「Z世代」と呼ばれる世代がその大半)を丁寧に、理解しようと努めている。

 「早送り視聴」を選ぶのではなく、選ばざるを得ない状況を一つ一つ丁寧に論考していて、よくありがちな上から目線のバッシングになっていない点が好ましい。そして全く同じ状況に追い込まれたら、「早送り視聴」はすべての世代に共通に発生しうること、いや、すでにそうなっているのではないかという恐れも感じた。

 今日はヨーロッパの有力国の国王戴冠式。地上波は政治・文化的に大きな意味を発信しようとしているこのイベントを放送しない。バラエティ番組の片隅にちょっぴり映した番組もあったが、音声はほとんど流されず、芸能人の小うるさい喋りと、初老のMCの「こども」でもわかる薀蓄話で覆いかぶされてしまう。すでに「その程度」でよい「コンテンツ」として「消費」されている。それについて考えるのは、連休疲れの頭にはしんどいし、はっきり言葉で教えてもらわないこと以外は各自の自由、他人がどう解釈しようと自分とは関係ないし、知ったことではない。

 こんな貧しい人間を生み出し、貧困状態に追い込んで支配しているのは一体どんな存在なのだろう。