「セッション」を観る ― 2018年12月20日 00:11
音楽は、なくても生存には差し支えないものだ。だから「遊び」と言っていい。だが、人間は「ホモ・ルーデンス」と呼ばれることもあるほど、遊びへの執着が強い。それが人間の人間たる所以と言ってもいいだろう。そして、時に「遊び」が生存を上回ってしまうこともある。まさに遊びの魔力に魅入られてしまったわけだ。ギャンブルで身を持ち崩すのも、スポーツ界でモラルハザードが起きるのも、破滅型の芸術家が頻出するのも、全て同じ。「遊び」にうつつを抜かし、魅入られて生きものとしての自分を見失ってしまう。
この作品に登場するのはそういう二人。鬼教師はすでに音楽、それもJAZZに魅入られ、人としては壊れている。その教師に見込まれた若いドラマー志望の学生である主人公は、人としてのありようと、音楽の魔力とのバランスに揺れるが、その本質はやはり破滅型。言葉や言動の端々に、最初から生きものとしての暮らしから浮いている状況が見て取れる。音楽にのめり込むほどその度合いは高まる。家族は音楽を認めていないが、そのくせスポーツには入れあげるなど、本質的には同じなのに、自覚がない。それが主人公を更に苛立たせ、音楽にのめり込ませていく。
ラスト近く、鬼教師の奸計に嵌り、屈辱にまみれ、父親のもとに向かう主人公は、父親を振り払い、音楽の魔に自らを差し出してしまう。そこからは音楽に魅入られたもの同士の戦いである。自分の社会的地位を奪った主人公への復讐に駆られた鬼教師もまた、主人公の鬼気迫るドラム演奏の「魔」に取り込まれ、魅入られ、支配されていく。
それを観るこちらもまた、演奏に魅入られ、取り込まれてしまう。ラストの一打に、感情を取り込まれた自分がいる。そしてエンドロールを見ながら、音楽といいう魔と暴力性にいとも簡単に取り込まれる自分を直視し、慄然とする。
ラストの演奏に魅入られた観客は、主人公や鬼教師の非人間性を指弾できる立場にはない。彼らと同じ存在であるにすぎない。
この作品に登場するのはそういう二人。鬼教師はすでに音楽、それもJAZZに魅入られ、人としては壊れている。その教師に見込まれた若いドラマー志望の学生である主人公は、人としてのありようと、音楽の魔力とのバランスに揺れるが、その本質はやはり破滅型。言葉や言動の端々に、最初から生きものとしての暮らしから浮いている状況が見て取れる。音楽にのめり込むほどその度合いは高まる。家族は音楽を認めていないが、そのくせスポーツには入れあげるなど、本質的には同じなのに、自覚がない。それが主人公を更に苛立たせ、音楽にのめり込ませていく。
ラスト近く、鬼教師の奸計に嵌り、屈辱にまみれ、父親のもとに向かう主人公は、父親を振り払い、音楽の魔に自らを差し出してしまう。そこからは音楽に魅入られたもの同士の戦いである。自分の社会的地位を奪った主人公への復讐に駆られた鬼教師もまた、主人公の鬼気迫るドラム演奏の「魔」に取り込まれ、魅入られ、支配されていく。
それを観るこちらもまた、演奏に魅入られ、取り込まれてしまう。ラストの一打に、感情を取り込まれた自分がいる。そしてエンドロールを見ながら、音楽といいう魔と暴力性にいとも簡単に取り込まれる自分を直視し、慄然とする。
ラストの演奏に魅入られた観客は、主人公や鬼教師の非人間性を指弾できる立場にはない。彼らと同じ存在であるにすぎない。
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