泥沼化?2018年12月06日 23:11

 全会長の逮捕でドタバタしている某社。それ以前にも不正検査トラブルがあって、ドロドロした状態だったのだが、また不正が発覚したという。なんだか泥沼化の様相を呈しているように思えてならない。

 お隣の国でも大企業の副社長が海外で身柄を拘束されるなど、ここのところ大きな企業のこまった事件がいろいろと報じられている。

 こういった騒動で一番迷惑を被るのは、真面目に働いている一般の労働者だ。身内に後ろ暗いことをしているようでは、顧客にも同じようなことをすると思われてしまうだろうに。

 もちろん、一番怒っているのも、真面目に働いている一般の労働者だ。経営側は顧客に対するのと同様に、あるいはそれ以上に一般労働者に頭を下げ、彼らが胸を張って働ける企業へと脱皮するべきだ。

「泥棒成金」を観る2018年12月13日 22:52

 「泥棒成金」を観る。1955年のアメリカ映画。監督はサスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック。この作品でもいつものごとく、ちゃっかりカメオ出演している。

 第二次大戦前、金持ちからしか宝石を盗まない「義賊」として、「猫」と呼ばれた主人公、ジョン・ロビー。逮捕されたが、大戦中のレジスタンス活動によって事実上の御社を勝ち取り、仮釈放とは言いながら、悠々自適の生活。まさに「泥棒成金」である。

 ところが、そんな彼の手口そっくりの犯罪が頻発、警察の手がさっそく伸びてくる。いまは構成してレストランを経営し、そこで働いている昔の仲間たちも、彼の仕業ではないかと疑っている。身に覚えのないロビーは、自分の潔白を証明するため、真犯人探しを始めるが…

 作品は若干コメディ仕立てで、肩の凝らない娯楽作品としてきちんと完成している。誰が見ても楽しめる佳作。

 ヒロインはグレース・ケリー。この作品の翌年にモナコ公国のレーニエ大公と結婚し、グレース王妃となる。ヒッチコック映画のヒロインとしても有名な美人女優だった。

k3bにエラー!2018年12月16日 21:22

 Ubuntuを18.04.1LTSにアップデートした。

 デスクトップがgnomeに戻り、そのせいでcompiz-fusionが使えなくなったので、ワークスペースの切り替えや設定に手こずったし、アプリケーションの細かいデザインにも変化があって、若干戸惑いはしたが、まあ大きな問題もなく使ってきた。

 ところが、久しぶりにk3bで音楽CDを焼こうとすると、エラーが発生。「cdrecordはデバイスを開く権限を持っていません」とエラーメッセージが出るが、こんなエラーが出たことは今まで一度もなかった。

 bresaroでデータCDは焼けたが、音楽CDを焼こうとすると、メディアを吐き出してどうにもならない。権限云々のトラブルなら、いっそroot権限でk3bを起こせばなんとかなるかと、端末からsudo k3bとやると、セキュリティ上の文句をつけながらk3bが起動。そして見事に音楽CDを焼くことができた。これでハード面、アプリ面の問題がないことが判明。パーミッション設定がアップグレードの時にすり替わっていたに違いない。

 ネットで調べると、やはり出てきた。cdrecordの実体はwodimなので、このプログラムのパーミッションを変更してやればいい。k3bの設定からプログラムを選択し、権限タブを見ると、/usr/bin/wodimは0755がデフォルトになっている。この画面からは設定ができないようなので、端末からsudo chmod 4711 /usr/bin/wodimと入力。k3bのタブをもう一度開き直してみると、権限が4711に変わっている。

 この状態で音楽CDを焼いてみると…見事成功。一安心だ。

「12モンキーズ」を観る2018年12月17日 22:28

 テリー・ギリアム監督の「12モンキーズ」を観る。

 未来世界のキッチュでごみごみして、レトロでチープな雰囲気は、いかにもテリー・ギリアムと言った感じだ。「未来世紀ブラジル」と同じテイストである。どちらの世界もディストピア、怪しげな科学者の登場など、共通点を感じることも多かった。

 タイムトラベルものとしても、よく構成されているし、「プリデスティネーション」のような複雑さも、シンプルなストーリー故に難解になっていない。

 あのブルース・ウィルスが、ウィッグと付け髭をつけるだけで、ヒッピー然としたルックスになったのにも驚いた。ブラット・ピッドの切れっぷりも凄まじい。ケルアックの「オン・ザ・ロード」に登場するイカれたモリアーティもかくやと思える。

 ラストのセリフの字幕だけは、いただけない。言語の持っている含みの意味が死んでしまっている。せめて「仕事は保険屋」ぐらいにしておいてほしかった。「スタートレックIV」のラスト、”welcome home"を「戦艦へようこそ」と訳した字幕と同程度のズレっぷりだ。

 ルイ・アームストロングとピアソラが無性に聴きたくなった。

「セッション」を観る2018年12月20日 00:11

 音楽は、なくても生存には差し支えないものだ。だから「遊び」と言っていい。だが、人間は「ホモ・ルーデンス」と呼ばれることもあるほど、遊びへの執着が強い。それが人間の人間たる所以と言ってもいいだろう。そして、時に「遊び」が生存を上回ってしまうこともある。まさに遊びの魔力に魅入られてしまったわけだ。ギャンブルで身を持ち崩すのも、スポーツ界でモラルハザードが起きるのも、破滅型の芸術家が頻出するのも、全て同じ。「遊び」にうつつを抜かし、魅入られて生きものとしての自分を見失ってしまう。

 この作品に登場するのはそういう二人。鬼教師はすでに音楽、それもJAZZに魅入られ、人としては壊れている。その教師に見込まれた若いドラマー志望の学生である主人公は、人としてのありようと、音楽の魔力とのバランスに揺れるが、その本質はやはり破滅型。言葉や言動の端々に、最初から生きものとしての暮らしから浮いている状況が見て取れる。音楽にのめり込むほどその度合いは高まる。家族は音楽を認めていないが、そのくせスポーツには入れあげるなど、本質的には同じなのに、自覚がない。それが主人公を更に苛立たせ、音楽にのめり込ませていく。

 ラスト近く、鬼教師の奸計に嵌り、屈辱にまみれ、父親のもとに向かう主人公は、父親を振り払い、音楽の魔に自らを差し出してしまう。そこからは音楽に魅入られたもの同士の戦いである。自分の社会的地位を奪った主人公への復讐に駆られた鬼教師もまた、主人公の鬼気迫るドラム演奏の「魔」に取り込まれ、魅入られ、支配されていく。

 それを観るこちらもまた、演奏に魅入られ、取り込まれてしまう。ラストの一打に、感情を取り込まれた自分がいる。そしてエンドロールを見ながら、音楽といいう魔と暴力性にいとも簡単に取り込まれる自分を直視し、慄然とする。

 ラストの演奏に魅入られた観客は、主人公や鬼教師の非人間性を指弾できる立場にはない。彼らと同じ存在であるにすぎない。