J-popを聴いて思うこと2023年07月18日 20:07

 J-popという名前をいつの間にか獲得した日本のポップス。今の曲も昔の曲も、いいものはいいと思うし、だめなものはいつの曲もだめだとしか感じられない。

 ただ、大まかな傾向として、昔のポップスには聴衆とのやり取りや呼吸というものが感じられるような気がする。聞き手が曲の中に飛び込む「隙」のようなものがあるように思える。アイドル歌手の親衛隊がコールするような「間」、ライブで観客に歌わせるフレーズのような「隙」である。歌場組でアップになるときの決めポーズ、歌舞伎の見栄のようなタイミングだ。

 これが最近になると、あまり感じない。のべつ幕なし機関銃のように(これも古い比喩だ)まくし立て、聴衆がつけ入る隙がない。マシンガントークさながら歌詞が途切れなく叩きつけられ、こちらはただ麻痺したように歌い手の言葉を(それも大半は聴取困難な早口か、多言語ミックスか、漢語の多用であることが多い)受け入れて行くしかない。息つく暇もない。まるでアジテーターのアジ演説のような組み立てだ。

 自分の思いを優先し、対話を拒み、自分の主張で一気に塗りつぶす。SNSの炎上を思わせるような曲。そんな狂騒に酔いしれることは否定できない。だが、そこに一抹の恐怖を感じる自分もいる。他人の言語でトランスに陥るのはシャーマニズムの基本だが、シャーマンの裏になにが存在するのかを疑う「隙」は欲しいものだ。