シン・ゴジラ鑑賞2016年08月12日 22:08

 「シン・ゴジラ」を鑑賞。

 初代ゴジラに近い世界観であり、完全なリブート作だ。しかし、今回のゴジラは初代ともまた違う一面を持っている。

 初代から、ゴジラは当時の庶民の不満を昇華するような存在としての一面を持っていた。公開当時、国内に政治に対する不満がくすぶっている状態で、国会議事堂の破壊シーンには多くの観客が拍手喝采したという。戦後教養人的な表現をすれば、庶民のルサンチマンを解消するために、ゴジラの破壊はカタルシスとして機能していた面がある。この時点で、ゴジラは「鯰絵」同様に世直しのための破壊者、一種のヒーローとして庶民の感情移入の対象となっていた。このあたりは宮田登氏の「妖怪の民俗学」に詳しい。

 だが、今回のゴジラは違う。初代同様、死んだ魚のようなまぶたのない丸い小さな目という不気味さがある上に、ゴジラは圧倒的他者、コミュニケーションの成立が不可能な存在として現れる。そこにヒーロー然とした姿はない。

 いわば、「ただ、そこにある脅威」だ。

 前回のアメリカ版ゴジラは、ゴジラのヒーロー性を希求することで多数のファンを惹きつけようとして、成功を収めた。しかし日本の観客はあの作品を見て(私もそうだ)、エメリッヒ版ほどのネガティブなものではないが、やはり違和感を感じたのではないか。ムートーという「クローバーフィールド/HAKAISHA」のモンスターを彷彿とさせる、絶対悪としての存在に立ち向かう、守護神的存在のゴジラ…いや、その設定は平成ガメラではないのか。

 「シン・ゴジラ」も、平成ガメラの空気を強く感じる。それはゴジラの位相ではなく、作品のスタンスだ。平成ガメラは「現代日本に、ガメラ・ギャオスという巨大生物が出現し、被害を発生させた場合、日本という国がどう対処するのか」を視点に据えたのが特徴だった。したがって怪獣名も政府が呼称を決定し、マスコミが報道する。「シン・ゴジラ」はこのスタンスを推し進め、ドキュメンタリー作品に限りなく近いものとなっている。使い捨てのように実力派俳優を惜しげもなく投入しているのも、登場人物の家族や人生についての挿話がほとんどないのも、ドキュメンタリータッチをストイックに追求した結果だろう。友情出演と称して、ふざけたようなカメオ出演者を多数出して、作品の緊張感を破壊してしまった、昭和最後の復活版ゴジラの無様な轍を踏まなかったのはみごとだ。

 当然、ゴジラ以外は徹底してリアリズム追求。悪名高いスーパーX様の秘密兵器は一切ない。感情移入できないゴジラは、悲哀も、怒りも象徴しない。カタルシスももたらさない。その結果、過去30作のどれもが達成し得なかった、純然たる恐怖の破壊神が現出した。

 立ち向かう日本政府の人々の動きは群像劇だ。弱腰のようで、いざとなると毅然とした態度を取り、昼行灯のようでありながら実は深慮遠謀を巡らせていたり、出世欲の塊のようでありながら、実は人情家であったり、様々な人間が入り乱れて対策に動く。ある意味理想的な官僚たちの働きぶりは、小松左京が「日本沈没」でアイロニーを込めて描き出した、国のために一心を捧げて奔走する理想の国家公務員そのものだ。小松はそのような役人は現実には存在しないのではないかと考えていたフシがあるが、3.11や熊本地震の後に生き、我が身をなげうって災害に立ち向かう人々を実際に知っているわれわれにとっては、逆にリアリズムを感じさせる。

 アメリカから女性の特使が派遣される。ネイティブっぽい発音の英語と日本語をちゃんぽんでしゃべる、上から目線の若いエリート女性という設定だが、あまりに安っぽいカリカチュアにしか見えなかった。周囲が抑えた演技であるのに対し、コントラストを出すための配役なのだろうが、いかにもバランスが取れていない。せっかくの重要な役どころなのに、他の俳優に比べて深みがなく感じた。石原ひとみには少々荷の重い役どころだったのだろうか。

 公開直前まで極秘シフトであった理由も察せられる。ゴジラに対して、観客は様々なイメージを持っているだろうが、根底には「恐怖」よりも「カタルシス」「ヒーロー」としてのゴジラを期待しているだろう。だが、今回は理解不能、コミュニケーション不能、感情移入不能の「恐怖」そのもののゴジラである。「ヒーロー」として荒唐無稽な活躍をしたり、人類とのバトルはあるものの、最後には自分から舞台を降りて去っていくゴジラを期待していた観客は、強い拒否反応を起こすだろう。ドキュメンタリータッチなので、観客サービス的なところは皆無と言っていい。字幕による説明は最小限最短、学術的な話も素人を放り出してどんどん進んでいく。バラエティや説明過剰の薄っぺらいドラマに慣れきった観客など弾き飛ばしてしまいそうな硬派な作りは、見る側を選ぶ要素が大きい。ゴジラがCG(モーションキャプチャーのモデルは野村萬斎)であることにも、抵抗を感じる向きがいるだろう。

 だが、今の日本の映画界の財力では、CGでも使わない限り、今回のような壮絶で、恐怖をまざまざと見せつけるような破壊シーンは絶対に撮影できないだろう。スーツでは表現しきれないポイントもたくさんある。作中にも「この国はスクラップ・アンド・ビルドで発展してきた」というセリフがあるが、まさに今回、ゴジラを「スクラップ・アンド・ビルド」でリブートしたと言える。

 わたしは、「今、ここにある脅威」としてのゴジラを高く評価したい。願わくは、大人の事情で再びこの「シン・ゴジラ」が愛嬌を振りまくヒーローになったりしませんように。