正しい省力化とは2023年05月22日 21:44

 教員の仕事がブラック化しているのは周知の事実。「聖職」などと持ち上げて、その裏では「公僕(僕とはもともと奴隷の意味)」ととらえてこき使い、育児や家庭教育をアウトソーシングしたのだから、ブラック化ではなく、最初からブラックである。

 ものにも限度というものがあって、その限度を超えたがために教員離れが進んでしまった。その対策として省力化と賃金アップが図られようとしている。

 しかし…「授業の準備を省力化」というのはいかがなものか。内申書への「所見」なる、まさにブラックな評価などをやめて数字だけの書類にし、部活動などというもともと子供を市井から隔離するための方便から虚飾と利権を剥ぎ取って廃止してスポーツ団体に完全委託するのがまず先決だ。野球やら吹奏楽やらダンスやら、マスコミが視聴率稼ぎのネタにするようなものなら、マスコミが全額を負担すればよい。受益者負担は当然だろう。進学手続きもすべて個人の責任、必要書類は教員ではなく事務方が一手に引き受ければよい。大学などはとっくにそうなっているし、そのほうが雇用も増える。

 教員の本職は授業ではないのか。そこを「省力化」するのが妥当とは到底思えない。事務仕事、書類仕事、オプション労働をすべて剥ぎ取った上で、授業準備にはきっちり時間をかけてもらいたいものだ。本職を省力化すれば、教員の質は必ず低下する。そうなればブラック化どころか、ブラックホール化してしまって取り返しのつかないことになりはしないか。

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