「アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風」を読む ― 2022年08月06日 17:45
「アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風」を読む。神林長平の「雪風」シリーズもこれで4作目。5作目も現在連載中。
本当に長いシリーズになった。シルフ時代の雪風の終焉で終止符を打った第一作から、思弁性、言語と世界認識といった神林作品の主流へとの接近と、次第に難解度も増して、前作「アンブロークンアロー」では一気にハードな理論合戦(というより、認識合戦というべきか)となっている。
正体不明の異星知性体、ジャムの侵攻が、地球人ロンバートのジャム側への裏切りと全面宣戦布告で新たな局面を迎える前作、超空間で地球とつながったジャムの本拠らしきフェアリイ星でジャムと最前線で戦うフェアリイ空軍への大打撃、そして南極海上でのジャーナリスト、リン・ジャクソンと主人公深井零との印象的な出会い。AI知性体としての「雪風」との腹の探り合いも続く。
しかし今作はどちらかと言うと、大打撃を受けたフェアリイ空軍の立て直しと戦略変更がメインとなる。零と主治医のエディスとの、なんとなくほのぼのとする、見ようによってはバカップルのような会話、零と相棒となる桂木とのちょっととぼけたようでいながら、鋭い直感力を持つ言動がいいバランスでストーリーをすすめていく。
新キャラクターも登場するが、日本のアグレッサー機、飛燕と共にフェアリイに来た伊歩も印象的だ。フェアリイ空軍に来るパイロットはみな一癖ある、ソシオパス系のキャラクターだが、彼女もそんな一人。だが、ラストでは意外とキュートな一面も見せて魅力的だ。
そして、やはり「雪風」。何を考えているかわからないといいながら、一番ジャムとの戦いに「燃えて」いるのは雪風だろう。クーリィの「雪風はやる気だ」という一言はいいえて妙だ。本作ラストでの登場の仕方がまたいい(そして、そんな雪風の動きをとっさに察して行動する桂木も、コミックリリーフ的な登場とは言え、切れ者にはちがいない)。
単なる「戦闘」ではなく、政治力も求められるようになった、新たなジャム戦。物語も思弁を重ね、さらに進んでいく。楽しみだ。
本当に長いシリーズになった。シルフ時代の雪風の終焉で終止符を打った第一作から、思弁性、言語と世界認識といった神林作品の主流へとの接近と、次第に難解度も増して、前作「アンブロークンアロー」では一気にハードな理論合戦(というより、認識合戦というべきか)となっている。
正体不明の異星知性体、ジャムの侵攻が、地球人ロンバートのジャム側への裏切りと全面宣戦布告で新たな局面を迎える前作、超空間で地球とつながったジャムの本拠らしきフェアリイ星でジャムと最前線で戦うフェアリイ空軍への大打撃、そして南極海上でのジャーナリスト、リン・ジャクソンと主人公深井零との印象的な出会い。AI知性体としての「雪風」との腹の探り合いも続く。
しかし今作はどちらかと言うと、大打撃を受けたフェアリイ空軍の立て直しと戦略変更がメインとなる。零と主治医のエディスとの、なんとなくほのぼのとする、見ようによってはバカップルのような会話、零と相棒となる桂木とのちょっととぼけたようでいながら、鋭い直感力を持つ言動がいいバランスでストーリーをすすめていく。
新キャラクターも登場するが、日本のアグレッサー機、飛燕と共にフェアリイに来た伊歩も印象的だ。フェアリイ空軍に来るパイロットはみな一癖ある、ソシオパス系のキャラクターだが、彼女もそんな一人。だが、ラストでは意外とキュートな一面も見せて魅力的だ。
そして、やはり「雪風」。何を考えているかわからないといいながら、一番ジャムとの戦いに「燃えて」いるのは雪風だろう。クーリィの「雪風はやる気だ」という一言はいいえて妙だ。本作ラストでの登場の仕方がまたいい(そして、そんな雪風の動きをとっさに察して行動する桂木も、コミックリリーフ的な登場とは言え、切れ者にはちがいない)。
単なる「戦闘」ではなく、政治力も求められるようになった、新たなジャム戦。物語も思弁を重ね、さらに進んでいく。楽しみだ。
「クラウド・アトラス」を観る ― 2022年06月28日 20:46
「クラウド・アトラス」を観る。2012年、ウォシャウスキー姉弟とトム・ティクヴァの監督、ドイツ・アメリカ合作映画。
19世紀から24世紀までの6つの物語を描き、年代記風にまとめられた作品。俳優はそれぞれの時代で複数の役を演じている。時系列順ではなく、6つの時代がモザイク的に進行するので、世界観を掴むまでは多少我慢も必要な作品。
冒頭のシーンがラストシーンとつながってこの長い物語は円環を閉じる構成となっている。なにせ172分の大作。ファスト映画ばかりだととてもついていけないだろう。映画も食べ物も、何もかもファストというわけにはいかない。スローはスローの味がある(もちろんファストで十分という映画も、今も昔もたくさんある…ファストどころか、瞬殺ものも…閑話休題)。
6つの物語に共通するのは、社会や常識、権力(暴力も)に抑圧され、それに反抗し、自由を希求する人間の姿。それぞれ犠牲を払いながら、時には命も失いながら、それでも人は自由を求めてやまない。そういう人間感が全編を貫いている。また、それぞれの舞台となっている社会の常識が(特に過去の物語においては)現代では誤りであり、場合によっては悪となっているという事実も明らかになる。どんなパラダイムも所詮諸行無常、それでも人は自由を、尊厳を求めることをやまない。そういういい意味でのオプティミズムにあふれている。
3時間、劇場でも座るのが(そしてトイレも)辛い時間だ。自宅ならもっとくつろげるのだろうが、世知辛い日常生活の空間では、現代、3時間のゆったりとした時間は贅沢となってしまったのかもしれない。映画館は時空間をまるごと買える希少な場所だが、それを消費するにも体力が必要なのは寂しい。
19世紀から24世紀までの6つの物語を描き、年代記風にまとめられた作品。俳優はそれぞれの時代で複数の役を演じている。時系列順ではなく、6つの時代がモザイク的に進行するので、世界観を掴むまでは多少我慢も必要な作品。
冒頭のシーンがラストシーンとつながってこの長い物語は円環を閉じる構成となっている。なにせ172分の大作。ファスト映画ばかりだととてもついていけないだろう。映画も食べ物も、何もかもファストというわけにはいかない。スローはスローの味がある(もちろんファストで十分という映画も、今も昔もたくさんある…ファストどころか、瞬殺ものも…閑話休題)。
6つの物語に共通するのは、社会や常識、権力(暴力も)に抑圧され、それに反抗し、自由を希求する人間の姿。それぞれ犠牲を払いながら、時には命も失いながら、それでも人は自由を求めてやまない。そういう人間感が全編を貫いている。また、それぞれの舞台となっている社会の常識が(特に過去の物語においては)現代では誤りであり、場合によっては悪となっているという事実も明らかになる。どんなパラダイムも所詮諸行無常、それでも人は自由を、尊厳を求めることをやまない。そういういい意味でのオプティミズムにあふれている。
3時間、劇場でも座るのが(そしてトイレも)辛い時間だ。自宅ならもっとくつろげるのだろうが、世知辛い日常生活の空間では、現代、3時間のゆったりとした時間は贅沢となってしまったのかもしれない。映画館は時空間をまるごと買える希少な場所だが、それを消費するにも体力が必要なのは寂しい。
「メッセージ」を観る ― 2022年06月06日 22:30
「メッセージ」を観る。2016年のアメリカ映画。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品。これも縁がなかった作品だが、やっとじっくり観ることができた。
原作はテッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」。エイリアンの言語を研究、習得するうちに、エイリアンの思考体系が取り込まれて云々は、古くはサミュエル・R・ディレイニーの未完の作品、「バベル17」の大ネタでもあるのだが、あちらがワイドスクリーン・バロック的な大風呂敷だったのに対して、こちらはほろ苦い。
エイリアンであるヘプタポッドにとっても、主人公のルイーズにとっても、種族全体に対しては大きな貢献をしながら、プライベートではその代償として大きな傷を背負い、大きな損失を被ることになる。
未来を知ることができないゆえの恐怖、その恐怖が生み出す暴力。これは今まさに世界中で繰り広げられている状況そのものだ。しかし、未来を知ることができるゆえに背負わなければならないものもまた大きく、重い。
ヴィルヌーヴ監督作品らしく、静謐な作品。ハデな音楽演出はなく、いかにもハリウッド的な盛り上げ工作などどこ吹く風。こういう作品、好みである。原作は書簡体小説で、さすがにそれは映画にするには難しいため、原作ならではの哀しみやユーモアが活かしづらくなったのは残念だが、この静謐さがルイーズの哀しみをしみじみと感じさせることにもなる。原作を知っているなら1度でも味わえるが、映画のみなら、1度目でストーリーを把握してから2度目に観ると、よりルイーズの表情の意味が伝わる。
アメリカ映画とはいえ、主な撮影場所はカナダ、監督もカナダ人。明らかに色合いが違い、ヨーロッパ的な映画だと感じる。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品。これも縁がなかった作品だが、やっとじっくり観ることができた。
原作はテッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」。エイリアンの言語を研究、習得するうちに、エイリアンの思考体系が取り込まれて云々は、古くはサミュエル・R・ディレイニーの未完の作品、「バベル17」の大ネタでもあるのだが、あちらがワイドスクリーン・バロック的な大風呂敷だったのに対して、こちらはほろ苦い。
エイリアンであるヘプタポッドにとっても、主人公のルイーズにとっても、種族全体に対しては大きな貢献をしながら、プライベートではその代償として大きな傷を背負い、大きな損失を被ることになる。
未来を知ることができないゆえの恐怖、その恐怖が生み出す暴力。これは今まさに世界中で繰り広げられている状況そのものだ。しかし、未来を知ることができるゆえに背負わなければならないものもまた大きく、重い。
ヴィルヌーヴ監督作品らしく、静謐な作品。ハデな音楽演出はなく、いかにもハリウッド的な盛り上げ工作などどこ吹く風。こういう作品、好みである。原作は書簡体小説で、さすがにそれは映画にするには難しいため、原作ならではの哀しみやユーモアが活かしづらくなったのは残念だが、この静謐さがルイーズの哀しみをしみじみと感じさせることにもなる。原作を知っているなら1度でも味わえるが、映画のみなら、1度目でストーリーを把握してから2度目に観ると、よりルイーズの表情の意味が伝わる。
アメリカ映画とはいえ、主な撮影場所はカナダ、監督もカナダ人。明らかに色合いが違い、ヨーロッパ的な映画だと感じる。
「シン・ウルトラマン」を観る ― 2022年06月04日 20:58
「シン・ウルトラマン」を観る。コロナ禍で公開が遅れ、やっと公開された作品。
まず、あのカラータイマーがない。これは当初の成田享のオリジナルデザインを踏襲したもの。あのカラータイマーは大人の事情で後付けされた上、3分間という設定は小学館の学習雑誌あたりが作った設定である。オリジナルの「ウルトラマン」の変身シーンを見れば、明らかにカラータイマーはない。
しかし「銀色の巨人」は本当に銀のメタリック光沢で再現されている。ここはCGの強みだろう。だからこそ最初にウルトラマンを目撃した時の浅見弘子のため息混じりの言葉「…きれい…」が生きる。そう、このウルトラマンは「強い」「かっこよい」ではなく、「きれい」なのである。そこから「神性」も自然と生まれてくる。
ウルトラマンが地球上での素体としたのは神永新二。演じる齊藤工の世離れした佇まいがマッチしている。ウルトラマン化した神永はあくまで「外星人」として人間を観察、評価しているので、彼の言動はミスター・スポックかデータ少佐のようにどこかズレているのだが、それがわざとらしくない。年齢の点もあるが(若いと「ウルトラマンメビウス」の「不思議ちゃん」となってしまう)、超然とした姿がいい。
オリジナルのウルトラマンは、護送中の怪獣を取り逃がした挙げ句、怪獣逃走先の現住知的生命体(ハヤタ)と衝突して殺害するという二重の不始末をしでかし、怪獣は現地で殺処分、ハヤタを素体にしている(人格はどうやら今回のウルトラマンよりもうまく統合しているようだが)ことで罪滅ぼしをしようとしているフシはあるが、結局上司のゾフィーに尻拭いしてもらうなど、冷静に考えればとんでもない奴ではある。今回のウルトラマンも人類に対しては大きな過失をしでかすのだが、彼は文字通り命がけでその失地を挽回しようとする。「神」としてのウルトラマンから、一つの生命体として、地球人と共にある存在として変化していく過程は、「ウルトラマンメビウス」の影響を感じる(そういえば「ウルトラマンは神ではない」という言葉も、「ウルトラマンメビウス」の中でハヤタ=ウルトラマンがメビウスに告げた言葉だったように記憶している)。
オリジナルのチープな部分をあえて残しているような部分や、オリジナルの有名なチョップのリアクションなど、オールドファンには笑える点も。一方で怪獣の着ぐるみを改造して制作費と制作時間を削るという大人の事情の部分を設定によって説明付けるところも、オリジナルに対する敬意だろう。そんな中でオリジナルには見られない「生と死」をテーマとした後半は、「ウルトラマン」というアイコンに執着する観客には辛いかもしれない。
第二期ウルトラマンや平成ウルトラマンをベースにしている観客には、普通の映画と受け止められるだろう。第一期を期待する観客には、後半が辛いだろう。だが、ウルトラマンという作品に対する昨今の様々な言説を楽しんできた観客には面白く感じるのではないか。アイコンに隠された重いテーマ(「ウルトラセブン」にはその面がクローズアップされてくる)を考えると、「シン・ウルトラマン」は、多様性と受容、コミュニケーションと信頼の物語である。
そうそう、「シン・ゴジラ」では最大のウィークポイントはヒロインの軽薄さが拭いきれないところだった。どう考えてもあのヒロインが次期大統領候補を狙えるとは思えない(「アイアン・スカイ」のアメリカならともかく…)。今回のヒロインは、知性をきちんと感じる。だから多少コメディリリーフがあっても、地に足がついたキャラクターとして機能している。空々しささえ感じた「シン・ゴジラ」の二人とは対象的で、今回の神永=齊藤と浅見=長澤には十分感情移入できる。このあたりは「ウルトラセブン」の雰囲気だ。
余談だが…もし「シン・ウルトラセブン」ができるとしたら、物語の最後、「ダンは死んで帰っていく」んだろうか…
まず、あのカラータイマーがない。これは当初の成田享のオリジナルデザインを踏襲したもの。あのカラータイマーは大人の事情で後付けされた上、3分間という設定は小学館の学習雑誌あたりが作った設定である。オリジナルの「ウルトラマン」の変身シーンを見れば、明らかにカラータイマーはない。
しかし「銀色の巨人」は本当に銀のメタリック光沢で再現されている。ここはCGの強みだろう。だからこそ最初にウルトラマンを目撃した時の浅見弘子のため息混じりの言葉「…きれい…」が生きる。そう、このウルトラマンは「強い」「かっこよい」ではなく、「きれい」なのである。そこから「神性」も自然と生まれてくる。
ウルトラマンが地球上での素体としたのは神永新二。演じる齊藤工の世離れした佇まいがマッチしている。ウルトラマン化した神永はあくまで「外星人」として人間を観察、評価しているので、彼の言動はミスター・スポックかデータ少佐のようにどこかズレているのだが、それがわざとらしくない。年齢の点もあるが(若いと「ウルトラマンメビウス」の「不思議ちゃん」となってしまう)、超然とした姿がいい。
オリジナルのウルトラマンは、護送中の怪獣を取り逃がした挙げ句、怪獣逃走先の現住知的生命体(ハヤタ)と衝突して殺害するという二重の不始末をしでかし、怪獣は現地で殺処分、ハヤタを素体にしている(人格はどうやら今回のウルトラマンよりもうまく統合しているようだが)ことで罪滅ぼしをしようとしているフシはあるが、結局上司のゾフィーに尻拭いしてもらうなど、冷静に考えればとんでもない奴ではある。今回のウルトラマンも人類に対しては大きな過失をしでかすのだが、彼は文字通り命がけでその失地を挽回しようとする。「神」としてのウルトラマンから、一つの生命体として、地球人と共にある存在として変化していく過程は、「ウルトラマンメビウス」の影響を感じる(そういえば「ウルトラマンは神ではない」という言葉も、「ウルトラマンメビウス」の中でハヤタ=ウルトラマンがメビウスに告げた言葉だったように記憶している)。
オリジナルのチープな部分をあえて残しているような部分や、オリジナルの有名なチョップのリアクションなど、オールドファンには笑える点も。一方で怪獣の着ぐるみを改造して制作費と制作時間を削るという大人の事情の部分を設定によって説明付けるところも、オリジナルに対する敬意だろう。そんな中でオリジナルには見られない「生と死」をテーマとした後半は、「ウルトラマン」というアイコンに執着する観客には辛いかもしれない。
第二期ウルトラマンや平成ウルトラマンをベースにしている観客には、普通の映画と受け止められるだろう。第一期を期待する観客には、後半が辛いだろう。だが、ウルトラマンという作品に対する昨今の様々な言説を楽しんできた観客には面白く感じるのではないか。アイコンに隠された重いテーマ(「ウルトラセブン」にはその面がクローズアップされてくる)を考えると、「シン・ウルトラマン」は、多様性と受容、コミュニケーションと信頼の物語である。
そうそう、「シン・ゴジラ」では最大のウィークポイントはヒロインの軽薄さが拭いきれないところだった。どう考えてもあのヒロインが次期大統領候補を狙えるとは思えない(「アイアン・スカイ」のアメリカならともかく…)。今回のヒロインは、知性をきちんと感じる。だから多少コメディリリーフがあっても、地に足がついたキャラクターとして機能している。空々しささえ感じた「シン・ゴジラ」の二人とは対象的で、今回の神永=齊藤と浅見=長澤には十分感情移入できる。このあたりは「ウルトラセブン」の雰囲気だ。
余談だが…もし「シン・ウルトラセブン」ができるとしたら、物語の最後、「ダンは死んで帰っていく」んだろうか…
「パシフィック・リム」を観る ― 2022年05月29日 09:20
「パシフィック・リム」を観る。2013年、ギレルモ・デル・トロ監督のアメリカ映画。
話題になっていながら、劇場に行くタイミングを逸し、それからはなかなか縁がないままだった作品。
日本のサブカル・コンテンツの、それも王道というより少し傍流に流れているあたりへのオマージュいっぱいの作品。心理描写が薄いのは確かだが、この尺でこの内容なら無理もない。日本のサブカルの多くはTVシリーズが基本で、トータルでいえば12時間以上(最近は6時間弱)もの時間を積み上げて作成されているので、心理描写にも時間が使えるが、2時間ではどこかを端折らなければならない。ストーリーを破綻させないためには、心理描写は薄めになってしまう。
作中の日本語の定着っぷりがまた面白い。どこか不自然で、でも意味は通る。意味と表現がどこかもどかしく乖離しているのは、日本語ネイティブ(菊池凛子演じる森マコは、幼少時にイギリス軍人に引き取られているので、日本語が不自然という設定なので、不自然でなければならない)ではない人々の日本語受容のスタイルとして興味深い。
カイジュー(冒頭で日本語の「怪獣」であると明記)が海底の次元断層から責めてくる。それに対抗するための人類側の兵器がイェーガー(ドイツ語で狩人)。二足歩行人形ロボットであるイエーガーはパイロットのモーションキャプチャーで操縦するが、精神面での負担が大きいため、パイロットは二人のバディとなり、大脳機能を共有するシステムの起動時に互いの記憶を共有することとなる。まさに巨大ロボットもののフォーマットのてんこ盛り状態。このあたりをシリアスに掘り下げると、ドロドロの人間関係ドラマになりそうなので、少年マンガ的にさらっと流すのだが、ここが心理描写の薄さの原因の一つにもなる。ダークな部分は描けても、ダーティな部分は描きにくい。プライバシーに関連するセンシティブな部分ももちろんである。
とまあ、そういう小難しい話をするのはこの映画には野暮だろう。おなじみの伏線と、おなじみのフラグをチェックしながら、ハデなロボットアクションを楽しむのがこういう映画の「お作法」だ。だからラストの甘さも許そう。そういうところも「日本のサブカル」そのままなのだ。
話題になっていながら、劇場に行くタイミングを逸し、それからはなかなか縁がないままだった作品。
日本のサブカル・コンテンツの、それも王道というより少し傍流に流れているあたりへのオマージュいっぱいの作品。心理描写が薄いのは確かだが、この尺でこの内容なら無理もない。日本のサブカルの多くはTVシリーズが基本で、トータルでいえば12時間以上(最近は6時間弱)もの時間を積み上げて作成されているので、心理描写にも時間が使えるが、2時間ではどこかを端折らなければならない。ストーリーを破綻させないためには、心理描写は薄めになってしまう。
作中の日本語の定着っぷりがまた面白い。どこか不自然で、でも意味は通る。意味と表現がどこかもどかしく乖離しているのは、日本語ネイティブ(菊池凛子演じる森マコは、幼少時にイギリス軍人に引き取られているので、日本語が不自然という設定なので、不自然でなければならない)ではない人々の日本語受容のスタイルとして興味深い。
カイジュー(冒頭で日本語の「怪獣」であると明記)が海底の次元断層から責めてくる。それに対抗するための人類側の兵器がイェーガー(ドイツ語で狩人)。二足歩行人形ロボットであるイエーガーはパイロットのモーションキャプチャーで操縦するが、精神面での負担が大きいため、パイロットは二人のバディとなり、大脳機能を共有するシステムの起動時に互いの記憶を共有することとなる。まさに巨大ロボットもののフォーマットのてんこ盛り状態。このあたりをシリアスに掘り下げると、ドロドロの人間関係ドラマになりそうなので、少年マンガ的にさらっと流すのだが、ここが心理描写の薄さの原因の一つにもなる。ダークな部分は描けても、ダーティな部分は描きにくい。プライバシーに関連するセンシティブな部分ももちろんである。
とまあ、そういう小難しい話をするのはこの映画には野暮だろう。おなじみの伏線と、おなじみのフラグをチェックしながら、ハデなロボットアクションを楽しむのがこういう映画の「お作法」だ。だからラストの甘さも許そう。そういうところも「日本のサブカル」そのままなのだ。
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