「オマル 導きの惑星」読了2018年04月14日 22:44

 ロラン・ジュヌフォール「オマル 導きの惑星」を読了。

 果てしなく巨大で、地平線の湾曲すら観測困難、居住種族からは果てしない平面と考えられている天体、オマル。そこには知的生命体種族が3種生息し(ヒトもそのなかの1種族)、かつてその星に集まった頃のことはおろか、テクノロジーまで失われてしまい、奴隷制や内戦が横行、ここ半世紀強でやっと3種族講和が成ったものの、その定着には時間がかかり、やっと講和が実効し始めたころ、22年前に購入された飛行船と分厚い卵の殻を送られた、種族も出自も年齢もまったく違う6人が、巨大な飛行船「イェルテル号」に集まってくる。

 不寛容・宗教間の対立・種族間の対立・性差や外見への偏見に苦しみながら生きてきた6人は、飛行というより漂流に近い状況に陥ったイェルテル号(の残骸)で、リーダーの地位をかけたゲームに挑み、負けたものから自分の身の上話を語り始める。

 果てしない世界をさまよう冒険は、冒険SFやファンタジーを思わせる。フランスSFである本作が、その起源にジュール・ヴェルヌの作品の色を見せているようだ。しかし、集められた6人の身の上話とくれば、ダン・シモンズのあの名作「ハイペリオン」の巡礼たちの物語を思わずにはいられない。ほかにも懐かしいクリフード・D・シマックの「都市」や、スタートレックTNGの初期エピソード、そしてラリイ・ニーヴンの懐かしい作品群も連想させられる。だが、偏見や不寛容といった問題意識は、ダイナミックで少々ラフなアメリカSFとは違う重みを持っている。大上段から理想を語るのではなく、悲観的な現実にもきちんと目を向け、それでもその現実に少しでも立ち向かおうとする静かな意志は、やはりヨーロッパ的視点なのかもしれない。

 ジュール・ヴェルヌを産んだ伝統あるフランスSFが、日本ではとんと紹介されない状況が続いてきた。外国語教育が実態として英語一辺倒という一様性のせいか、それ以外の言語の作品の翻訳は圧倒的に少ない。フランスSFが読めなかったという、多様性の喪失もまた、不寛容の遠因だと考えれば、悲観的な現実の中に本書が出版されたのも、新たな一歩の始まりかもしれない。

 続編(というより、前日譚だが)「オマル2 征服者たち」もすでに出版されている。だが、「オマル」はシリーズ化しているのに、全作の翻訳出版には至っていない。それが残念だ。