「ブルークリスマス」を観る ― 2023年03月02日 21:18
「ブルークリスマス」を観る。1978年の日本映画。監督は岡本喜八、脚本は倉本聰。主演は仲代達也、勝野洋、竹下景子。
ワンアイディアのSFネタ(この場合はScience FictionというよりはScience Fantasyであろう)をメタファーとして使った政治ドラマである。異質なものに対する恐怖、差別、排斥、その正当化としての情報操作による恐怖と憎悪の増幅が描かれる。善悪二元論や人権の否定(敵は人間ではないから惨殺しても構わないという思考法は時と場所を選ばず、戦争という狂気を正当化する定番の理屈)が世界レベルの政治で仕組まれる恐怖を描いた映画だ。今、この世界情勢でこの映画を作ることができるかといえば、忖度(=脅迫)政治が蔓延したこの国で、倉本聰と岡本喜八の両者が健在であっても難しいだろう。それとも、「SF」は子供だましのくだらないものだと世論操作して黙殺するか、「難解で意味がわからない」と排除するか。
とはいえ、映画としてはいささか微妙な出来だ。主に2つのパートが絡み合うストーリーなのだが、その絡み合いがちっとも有機的になっていない。複数のストーリーが絡み合いながら有機的に全体を組み上げていく今のSF小説に比べると、ストーリーテリングの甘さが目立つ。仲代達也演じるジャーナリストも背景設定が薄く、脚本上でリアルなキャラクターとしての説得力に欠けている。仲代の演技によってかろうじて生身のキャラクターとなっているレベルだ。勝野洋の軍人は朴訥を通り越して異様。好きになった理容師のいる理髪店にスポーツ刈りの頭で3日と開けず通うなど、もはやストーカーである。そんな男に惹かれる竹下景子演じる理容師という設定もリアリティがない。みんな単なる記号である。仲代の演技力と、竹下の美貌と、勝野の「太陽にほえろ」での人気でかろうじて押し切ったと言わざるを得ない。もちろん彼らを支える映像を生み出した岡本喜八の力も重要だ。
倉本の脚本が残念ながら「意あって言葉足らず」の紀貫之的なものだったと言わざるを得ない。120分超えの尺でもこの脚本、設定は描ききれていない。TVで2クールぐらいのスケールでないと(今の視聴者は1クールぐらいにしないと辛抱できないだろうが)難しいのではないか。SFとしても、ヘモグロビンがヘモシアニンに変化するメカニズムを描かないのはともかく、その変化によって性格まで変化するという設定も説得力に欠ける。こういった部分の補強はSFのキモなのだが、そういうセンスはこの作品にはない。日本人がよりどころである日本そのものを喪失するというメタファーに徹底的な科学的考証をつぎ込んでリアリティを高め、そのことによって、作品の出来の良し悪しは別としても、何度も多角的な視点でリメイクされる「日本沈没」とは対照的だ。
映画としては今ひとつ、だがテーマは、むしろ現代の世界に対して大きなインパクトを持ったものになっている。いろんな意味で「もったいない」作品だ。
ワンアイディアのSFネタ(この場合はScience FictionというよりはScience Fantasyであろう)をメタファーとして使った政治ドラマである。異質なものに対する恐怖、差別、排斥、その正当化としての情報操作による恐怖と憎悪の増幅が描かれる。善悪二元論や人権の否定(敵は人間ではないから惨殺しても構わないという思考法は時と場所を選ばず、戦争という狂気を正当化する定番の理屈)が世界レベルの政治で仕組まれる恐怖を描いた映画だ。今、この世界情勢でこの映画を作ることができるかといえば、忖度(=脅迫)政治が蔓延したこの国で、倉本聰と岡本喜八の両者が健在であっても難しいだろう。それとも、「SF」は子供だましのくだらないものだと世論操作して黙殺するか、「難解で意味がわからない」と排除するか。
とはいえ、映画としてはいささか微妙な出来だ。主に2つのパートが絡み合うストーリーなのだが、その絡み合いがちっとも有機的になっていない。複数のストーリーが絡み合いながら有機的に全体を組み上げていく今のSF小説に比べると、ストーリーテリングの甘さが目立つ。仲代達也演じるジャーナリストも背景設定が薄く、脚本上でリアルなキャラクターとしての説得力に欠けている。仲代の演技によってかろうじて生身のキャラクターとなっているレベルだ。勝野洋の軍人は朴訥を通り越して異様。好きになった理容師のいる理髪店にスポーツ刈りの頭で3日と開けず通うなど、もはやストーカーである。そんな男に惹かれる竹下景子演じる理容師という設定もリアリティがない。みんな単なる記号である。仲代の演技力と、竹下の美貌と、勝野の「太陽にほえろ」での人気でかろうじて押し切ったと言わざるを得ない。もちろん彼らを支える映像を生み出した岡本喜八の力も重要だ。
倉本の脚本が残念ながら「意あって言葉足らず」の紀貫之的なものだったと言わざるを得ない。120分超えの尺でもこの脚本、設定は描ききれていない。TVで2クールぐらいのスケールでないと(今の視聴者は1クールぐらいにしないと辛抱できないだろうが)難しいのではないか。SFとしても、ヘモグロビンがヘモシアニンに変化するメカニズムを描かないのはともかく、その変化によって性格まで変化するという設定も説得力に欠ける。こういった部分の補強はSFのキモなのだが、そういうセンスはこの作品にはない。日本人がよりどころである日本そのものを喪失するというメタファーに徹底的な科学的考証をつぎ込んでリアリティを高め、そのことによって、作品の出来の良し悪しは別としても、何度も多角的な視点でリメイクされる「日本沈没」とは対照的だ。
映画としては今ひとつ、だがテーマは、むしろ現代の世界に対して大きなインパクトを持ったものになっている。いろんな意味で「もったいない」作品だ。
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