「山椒大夫」を観る ― 2019年08月17日 06:04
「山椒大夫」を観る。1954年の溝口健二監督作品。安寿と厨子王の話であり、原作は森鴎外となっている。
森鴎外の小説は民話の残酷シーンや報復シーンをごっそり切り捨て、姉弟や母子の情愛に重点を置いたものとなっている。虐められても仕返しはせず、母と再会できたことでめでたしめでたしとなる、良い子のお涙頂戴ものとなっており、教条主義、親孝行至上主義のような胡散臭さを感じた。鴎外の本職が軍医、つまり陸軍軍人であることも考え合わせると、素直に感動しづらいところもある作品である。
溝口版はそうした原作に対し、山椒大夫の残虐性を復活させている。また、姉弟ではなく兄妹と設定を変え、厨子王の未熟さ、自暴自棄になり、自分自身も山椒大夫側に立って残虐行為に手を染めるなどの弱さも描き出している。このあたりに第二次大戦後の視点を感じる。一般市民が戦争に巻き込まれ、その中で様々な恐怖を感じ、残虐行為に手を染めていく状況を簡潔に表していると言えるだろう。
安寿の入水は印象的なシーンだが、これみよがしな音楽もなく、静かに描かれている。ラストシーンは世界的にも有名だが、ここもまた静かなもので、静謐そのものだ。いまの安っぽいお涙頂戴演出は、わかりやすく感動ポイントに観客を誘導するが、そんなものは本当に必要なのか、この作品を見るとつくづくそう思う。
復讐譚も追加されているが、対権力構造での復讐はおとぎ話のようにスッキリとカタルシスを感じ取れるものとはなっていない。むしろ捨て身の共倒れだ。オリジナルの説話より一歩進んだ厳しいリアリズムが忍び込む。持仏も単に厨子王の身分証明としての意味としてしか機能しておらず、仏教説話的な色合いもない。戦争というこの世の地獄を見た視点はここでも健在だ。厨子王の復讐もまた結局は滅亡を生み出しただけであり、権力闘争の虚しさもはっきりと描かれている。
1954年は「七人の侍」「ゴジラ」も生まれた年。虐げられ、苦しめられた人々に寄り添いながら、痛みの記憶も生々しく、鎮魂と祈りと平和の回復、権力への怒りといったものが渦巻いていた時代の空気も感じられる。
森鴎外の小説は民話の残酷シーンや報復シーンをごっそり切り捨て、姉弟や母子の情愛に重点を置いたものとなっている。虐められても仕返しはせず、母と再会できたことでめでたしめでたしとなる、良い子のお涙頂戴ものとなっており、教条主義、親孝行至上主義のような胡散臭さを感じた。鴎外の本職が軍医、つまり陸軍軍人であることも考え合わせると、素直に感動しづらいところもある作品である。
溝口版はそうした原作に対し、山椒大夫の残虐性を復活させている。また、姉弟ではなく兄妹と設定を変え、厨子王の未熟さ、自暴自棄になり、自分自身も山椒大夫側に立って残虐行為に手を染めるなどの弱さも描き出している。このあたりに第二次大戦後の視点を感じる。一般市民が戦争に巻き込まれ、その中で様々な恐怖を感じ、残虐行為に手を染めていく状況を簡潔に表していると言えるだろう。
安寿の入水は印象的なシーンだが、これみよがしな音楽もなく、静かに描かれている。ラストシーンは世界的にも有名だが、ここもまた静かなもので、静謐そのものだ。いまの安っぽいお涙頂戴演出は、わかりやすく感動ポイントに観客を誘導するが、そんなものは本当に必要なのか、この作品を見るとつくづくそう思う。
復讐譚も追加されているが、対権力構造での復讐はおとぎ話のようにスッキリとカタルシスを感じ取れるものとはなっていない。むしろ捨て身の共倒れだ。オリジナルの説話より一歩進んだ厳しいリアリズムが忍び込む。持仏も単に厨子王の身分証明としての意味としてしか機能しておらず、仏教説話的な色合いもない。戦争というこの世の地獄を見た視点はここでも健在だ。厨子王の復讐もまた結局は滅亡を生み出しただけであり、権力闘争の虚しさもはっきりと描かれている。
1954年は「七人の侍」「ゴジラ」も生まれた年。虐げられ、苦しめられた人々に寄り添いながら、痛みの記憶も生々しく、鎮魂と祈りと平和の回復、権力への怒りといったものが渦巻いていた時代の空気も感じられる。
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