平和の祭典?2021年07月23日 09:06

 今日、国際大運動会が始まるという。
 なんでも「平和の祭典」とやらいう二つ名があるらしい。

 実際は「分断の祭典」であろう。

 もはや何の大義もない。利権と欲望にまみれた一大ショーである。おまけにメインの出し物は、一応建前上素人ということになっている人々の運動発表会及び競技会である。まあ、平たく言えば視聴者参加番組である。内容の大半が宣伝と番宣であるのは、日頃その手の「バラエティ」と称するテレビ番組を考えれば想像がつく。

 だからイベント分野でもその程度の連中が群がる。この国で「お笑い」といえば、本質はいじめと虐待と新人なぶりであり、その中で生き延びてきた連中の横柄で勘違いも甚だしい言動である。

 この傾向は「お笑い」だけに限らない。スポーツ界も、芸能界も、政治の世界も皆同じ。まさに「お笑い草」である。これだけ「お笑い」まみれのなかで、もはや何を笑えというのか。スポーツにのめり込み、美技を披露してくれる選手に素直に拍手を送ることが、「お笑い草」を増長させ、「草ぼうぼう」の荒れ地を生むことを考えると、なんともやりきれない絶望的な気分になる。

 この「お笑い草」の荒れ地を維持するために、「お笑い」連中がヒエラルキーを作る。トップは自分の地位を保持するために汲々とする。「お笑い草」程度の人間が他人を牛耳るのだから、当然手法はスターリンと同じ。粛清と恫喝である。残るのはトップ以下、「お笑い草」たちの「お笑い草」ばかり。恫喝によって情報もほしいままに操作し、逆らえば人事権や許認可権をタテに圧力をかける。こんな集団は指数関数的に劣化し、自滅する。「ダイホンエイ」を忘れた多くの無辜の人々を巻き添えにして。

 その後に何が残るのか。学校ではさらりとしか教えない。だが、世界にはそれを決して忘れない、忘れられない人々が大勢いる。それに思いを致すことがない社会が、国際的な行事を主催することなどありえない。コロナ禍が問題なのではない。この社会が主催に値する成熟を見せていないことのほうが問題である。

 そして社会とは、「多くの無辜」が成り立たせているものでもある。わたし自身を含めたひとりひとりが責任者だ。お上の責任でも、「お笑い草」連中の責任でもない。そういう連中を内部浄化できない、我々全ての責任だ。国際大運動会のぶざまなありさまは、そのまま我々全ての実際の姿の象徴であり、国民全ての象徴だ。目を背けずに直視すべきだろう。

 せめて抵抗だけでもしたい。たとえ叶わぬまでも。ほんのわずかなことであっても。

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