ドーピング2016年07月23日 09:50

 ロシアのドーピング事件がなかなか大変らしい。

 この手の話が出ると、よく耳にするのが「スポーツマンシップ」という言葉だ。だが、この言葉、あくまでスポーツが「遊び」の域にあるときに使える言葉ではないだろうか。「遊び」というと過敏に反応する向きもあるが、要するに「アマチュア」、つまり生活や利益とは無縁なものという意味である。人間、遊びがなければ健康的な暮らしなどおぼつかない。必須だが優先順位が決して1位にならない行為を「遊び」と呼ぶと、私は考えている。

 オリンピックが「アマチュア」でありえないのは、暗黙の事実である。「国」を背負った瞬間から、「国益」という利益はつきまとう。為政者にとって、オリンピックでの成績は国民に元気を与えるという「利益」を産み、「権力」を補強するのだから、すでに「アマチュア」や「遊び」とはかけ離れている。

 もちろん、現在アマチュアスポーツにもスポーツ産業という営利団体がガッチリ食い込んでいる。早朝草野球チームにユニフォームの着用を求めたり、学校の部活動が「体操服」以外のユニフォームを着用することが当然のごとく求められ(て、家系の負担が増し)ている。おまけに昨今の民放バラエティ番組での学校部活動特集(もちろん視聴率とそれに連動するスポンサー収益という利益がガッチリ食いついている)も考えれば、アマチュアスポーツもすでに資本の搾取対象であり、「遊び」とは程遠い。

 プロスポーツでもドーピングは問題視されているが、これは「スポーツマンシップ」の遵守がプロスポーツの重要な「営業品質」に関わるからだ。その意味では独占禁止法や商法などに対するコンプライアンスと同じ次元で「スポーツマンシップ」が求められていることになる。もちろん、営利企業であるプロスポーツは法の目をくぐり、あるいは違法ぎりぎりの線まで責めて「勝ち」にこだわるのが当然。本来の「スポーツマンシップ」をイメージ戦略として利用しているに過ぎない。

 ドーピングなどという無理なことをすれば、人体にダメージを与えるのは明らかだ。それより「利益」が優先されるのだからたまらない。しかし、現在の「遊び」ではないスポーツ(これも良く耳にする言葉)は、究極の所ドーピング志向を脱することは本質的にできないだろう。薬物を使わなくても、食事制限やメニューコントロールも、広義のドーピング行為と言えるからだ。そのような特殊な食事に必要な「経済力」が物を言うのなら、結局スポーツも大局的に「金」の争いでしかない(例外は当然あるが、分母を考えれば、無視できるほどの数にしかならないだろう)。

 いっそ、正直に「勝つためにはあらゆる手段を使う」と公言したほうがよほど誠実ではないだろうか。ありもしない「アマチュア」の「スポーツマンシップ」という幻想で、人体を危険に晒すような過酷な行為を選手に強いる存在があるという事実に蓋をすることのほうが問題だ。オリンピックだって、はっきりと「開催した場合の経済効果」という算盤勘定を公言して誘致・運営しているのだから、すでに「営業」であり、そこに厳密な「アマチュア」など存在し得ない。いくら選手がそのつもりでなくても、でかでかと商標の貼り付いた「ユニフォーム」を身にまとった時点で、広告活動(つまり営業・営利追求活動)をしていないなど、茶番である。