横浜のいじめ事件2016年11月16日 22:29

 福島から避難してきた小学生がいじめを受け、やがて金品の強要にまでエスカレートし、不登校状態に陥ったことが明るみに出て、学校・教育委員会の不作為が厳しく指摘されている。

 いじめた側に同情の余地はない。だが、問題はすでに「いじめ」の域ではないだろう。明らかに社会的に弱者の位置にいるものから強請り・たかりで金品をむしりとるのは、すでに犯罪である。そのような行為を行ったのが何歳であるのかはなんの問題にもならない。

 生きることを宣言した被害者の強さは、家族の強い支えがあってこそのものであり、震災の被害を乗り越えた東北の人々の思いがあってのことだ。それに引き換え、加害者側の心のさもしさ、弱さ、人間としての貧しさ、汚さ、あさましさは、あまりに対照的だ。学校の調査を「おごってもらっただけ」などとうそぶいて言い逃れたままであれば、彼らはおそらく、新たな犠牲者を見つけ出し、同じような強請り・たかりを働いていたのではないか。そうであれば、加害者のこれからの人生には破滅しか残されていない。

 天網恢恢疎にして漏らさずという。今回事件が明るみになったことで、厚生の機会が明示されたことを、加害者側がどれほど真摯に受け止めるのか。加害者を犯罪に引きずり込む結果となった彼らの周囲が、この事実をどう受け止めるのか。加害者側の課題は非常に大きい。