ポケモン・怪盗グルー鑑賞 ― 2017年08月06日 22:17
「劇場版ポケットモンスター きみにきめた」を鑑賞。
サトシとピカチュウの出会いはTV版の第1シーズン第1話で描かれているが、リアルタイムではすでに20年以上過去の話だ。TVはまだブラウン管、4:3の時代。もはやレンタルDVDも店頭には見当たらず、かろうじて配信サービスで視聴できる程度になっている。いまの子どもたちには、サトシというキャラクターの基本設定、ピカチュウとの関連性については所与のものとなっている。それを映画の形で若干のリブートを加えて、原点を再度確認する作品となっている。
最近のシリーズでの、どちらかといえば超人的なヒーローの様相が強かったサトシから一転し、TV第1シーズンの頃の未熟な少年に戻ったことで、サトシの本質的な有り様が明確化されている。TVシリーズ自体がサトシの成長物語を堅実につくりあげているので、要所要所にTV版のエピソードを効果的に散りばめ、子供向け作品にありがちな、大人の妄想で出来上がったよい子の世界ではなく、TV版同様、ビターでダークな面もきちんと描かれていているのがよい。
大団円もスペクタクルだが、舞台はミニマムにまとまっている。再現されたTV版第1話のエンディングが、この部分で再度リピートされる。このラスト部分は、劇場第1作「ミュウツーの逆襲」を彷彿とさせ、それに匹敵するものとなりえている。オンエア問題を受け、コンテンツそのものの存続をかけて制作された第1作を凌駕することがなかなかできなかったポケモン映画だったが、今回やっとそれに比肩できるものとなったのではないか。
エンドクレジットは、フランスのプレミア上映では喝采を浴びたという。TV版と本作との連関性をコンパクトに、オールドファンにはノスタルジックに演出する、心憎いクレジットだ。だが、大きくキャラクターデザインが変わった現TVシリーズとの断絶性はより強調されてしまったようにも思える。もしかしたら、本作は旧キャラクターデザインの総決算、あるいは決別の意味もあったのかも知れない。とすれば、背水の陣の「ミュウツーの逆襲」と比肩しうる作品となったのもうなずける。
「怪盗グルーのミニオン大脱走」は、なんとも焦点の絞りにくい作品だったと感じた。悪役が80年代を引きずる悪党で、音楽、ファッション、センスが全て80年代。「愛は吐息のように」や「BAD」、「フィジカル」といった80年代の名曲が使われているが、今の日本の子どもたちにはピンときていなかったようだし、親の世代にとってもすでに古い曲。ミニオンはメインフレームであるグルーのストーリーとはほとんど噛みあうこともなく、緊密なストーリー性や伏線も伺えない。ヒロインがグルーの娘たちに母親と認知してもらうプロセスも、単に圧倒的な戦闘力と身体能力に依拠した暴力的な保護行動に娘達が感動し依存するといったもので、力こそ正義といったポリシーが紛々と漂う。キャラクターの掘り下げや関係性についての描写はかなり端折られていて、視覚的ギャグやめまぐるしい動きで押し切ろうとしている感じが強い。
言ってしまえば、典型的なアメリカの「カートゥーン」のパターンを踏襲していると言える。何も考えず、ひたすらスラップスティックギャグにはまってしまえば十分楽しめる。その中に家族愛をスパイス程度に効かせて、きれいにまとめ上げた作品だろう。
「物語性」を追求し、アニメーションや子供向けと認識されるジャンルを「表現媒体」として捉えた「ポケモン」と、「カートゥーン」というジャンルを所与のものとして、そこに「物語性」をフレーバーとして投入する「怪盗グルー」、両者を同列に比較するのは、そのベクトルの違いからしてフェアではないだろう。だが、作品の総合力という点から考えれば、「ジャンル」のイメージという軛から開放された「ポケモン」の方に軍配が上がる。当然、「ポケモン」の延長線上に「クレヨンしんちゃん」があり、「君の名は、」があるのは言うまでもない。
サトシとピカチュウの出会いはTV版の第1シーズン第1話で描かれているが、リアルタイムではすでに20年以上過去の話だ。TVはまだブラウン管、4:3の時代。もはやレンタルDVDも店頭には見当たらず、かろうじて配信サービスで視聴できる程度になっている。いまの子どもたちには、サトシというキャラクターの基本設定、ピカチュウとの関連性については所与のものとなっている。それを映画の形で若干のリブートを加えて、原点を再度確認する作品となっている。
最近のシリーズでの、どちらかといえば超人的なヒーローの様相が強かったサトシから一転し、TV第1シーズンの頃の未熟な少年に戻ったことで、サトシの本質的な有り様が明確化されている。TVシリーズ自体がサトシの成長物語を堅実につくりあげているので、要所要所にTV版のエピソードを効果的に散りばめ、子供向け作品にありがちな、大人の妄想で出来上がったよい子の世界ではなく、TV版同様、ビターでダークな面もきちんと描かれていているのがよい。
大団円もスペクタクルだが、舞台はミニマムにまとまっている。再現されたTV版第1話のエンディングが、この部分で再度リピートされる。このラスト部分は、劇場第1作「ミュウツーの逆襲」を彷彿とさせ、それに匹敵するものとなりえている。オンエア問題を受け、コンテンツそのものの存続をかけて制作された第1作を凌駕することがなかなかできなかったポケモン映画だったが、今回やっとそれに比肩できるものとなったのではないか。
エンドクレジットは、フランスのプレミア上映では喝采を浴びたという。TV版と本作との連関性をコンパクトに、オールドファンにはノスタルジックに演出する、心憎いクレジットだ。だが、大きくキャラクターデザインが変わった現TVシリーズとの断絶性はより強調されてしまったようにも思える。もしかしたら、本作は旧キャラクターデザインの総決算、あるいは決別の意味もあったのかも知れない。とすれば、背水の陣の「ミュウツーの逆襲」と比肩しうる作品となったのもうなずける。
「怪盗グルーのミニオン大脱走」は、なんとも焦点の絞りにくい作品だったと感じた。悪役が80年代を引きずる悪党で、音楽、ファッション、センスが全て80年代。「愛は吐息のように」や「BAD」、「フィジカル」といった80年代の名曲が使われているが、今の日本の子どもたちにはピンときていなかったようだし、親の世代にとってもすでに古い曲。ミニオンはメインフレームであるグルーのストーリーとはほとんど噛みあうこともなく、緊密なストーリー性や伏線も伺えない。ヒロインがグルーの娘たちに母親と認知してもらうプロセスも、単に圧倒的な戦闘力と身体能力に依拠した暴力的な保護行動に娘達が感動し依存するといったもので、力こそ正義といったポリシーが紛々と漂う。キャラクターの掘り下げや関係性についての描写はかなり端折られていて、視覚的ギャグやめまぐるしい動きで押し切ろうとしている感じが強い。
言ってしまえば、典型的なアメリカの「カートゥーン」のパターンを踏襲していると言える。何も考えず、ひたすらスラップスティックギャグにはまってしまえば十分楽しめる。その中に家族愛をスパイス程度に効かせて、きれいにまとめ上げた作品だろう。
「物語性」を追求し、アニメーションや子供向けと認識されるジャンルを「表現媒体」として捉えた「ポケモン」と、「カートゥーン」というジャンルを所与のものとして、そこに「物語性」をフレーバーとして投入する「怪盗グルー」、両者を同列に比較するのは、そのベクトルの違いからしてフェアではないだろう。だが、作品の総合力という点から考えれば、「ジャンル」のイメージという軛から開放された「ポケモン」の方に軍配が上がる。当然、「ポケモン」の延長線上に「クレヨンしんちゃん」があり、「君の名は、」があるのは言うまでもない。
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