文春砲の凋落2018年02月02日 21:41

 文春の不倫スクープが、今回の小室氏の引退の引き金となったことで、一気に支持を失っているらしい。

 芸能(or NO)人の不倫をすっぱ抜くことが世のため人のためにどれほど貢献するかといえば、まあ、はっきり言ってどうでもよい。不倫のバッシングの裏には、人々の羨望もまた見え隠れする。

 不倫というが、これは結婚と恋愛が等価であることが前提。そんな現象は人類史の中でもごく最近の事象にすぎない。結婚は周囲のコミュニティがそのほとんどを規定しており、恋愛とはまったく別のモードで形成されているもののほうが圧倒的に多かった。一方恋愛は人間の本能に近いところで発動する感情であって、コミュニティの都合でどうこうなるような性質のものではない。コミュニティと感情が偶然一致すれば、結果オーライのおしどり夫婦ともなるだろうし、そういう事象も少なくはない。だが、相剋が発生する事象も多数、文学や芸術のテーマの多くはそこにある。

 一方、恋愛は感情なので、当然起伏や変動が前提とされる。恋愛をコミュニティ上で安定化させるためのものとして、結婚という制度が変質したと言える。不倫を問題視するのは、コミュニティの安定を脅かすからとも言える。しかし、コミュニティの安定を優先し、感情を抑制するのであれば、結局恋愛と結婚が別物であった時代と、本質はなにも変わっていない。

 いずれにせよ、感情とコミュニティとの相剋そのものに切り込むことなく、その上にあぐらをかいてスキャンダルで儲けようとしたのだから、底が浅い活動であることに変わりはない。そして、それを支持するのもまた人の感情である以上、その支持もまた簡単に変動していく。

 平たく言えば、芸能人の不倫騒ぎなどといった、世の中にとってどうでもいい彼岸の火事で大騒ぎするのはうんざりだ、勝手にやってりゃいい、こちとら忙しいんだ、という感情が広がってきただけのこと。

 文春よ、もう大衆は不倫に飽きたのだ。