「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を観る2018年05月19日 23:38

 1981年版の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を観る。

 何度も映画化されている作品だが、これは一番新しい映画化。不倫の果てに夫を愛人と共謀して殺すという、現実でもありそうな事件が物語の骨子となっている。

 時代は大戦前か。現在なら確実に足がついてしまうほどずさんな犯罪で、いざというときにはイレギュラーなトラブル頻出と、お約束どおり。ミステリに目の肥えた現代人の感覚では、かえってリアリティを感じないかもしれない。制作が80年代だけに、不倫の描写のお行儀の悪さは公開当時は話題となっただろうが、今の目では、まあお茶の間ではまずいかなと言った程度。

 そういう色モノフィルターを外してしまえば、王道をいくピカレスクストーリー。全体にまったりとしたテンポで続くので、ハリウッド映画としては少々メリハリに欠ける。かといってヨーロッパ映画のような退廃美のようなものもなく、アメリカン・ニューシネマのようなアナーキーさもない。

 ラストも…やっぱりそういうことになるなと予想した通り。ニコルソンの名演とラングの名演でラストまで支えきったという感が強い。突き放したような乾いた感覚というには音楽が甘すぎる。セクシーなエンタテインメントに徹しているかといえば、淡々としすぎている。少々座りの悪い作品だった。

「靴をなくした天使」を観る2018年05月23日 23:55

 「靴をなくした天使」を観る。

 マスコミが偶像を作り、その偶像を人々は信じる。それが真実であるかどうかは無関係だ。人は自分の信じたいものしか信じようとはしない。そんな皮肉な現実を、サラッとスマートに、時にくすぐりを入れて痛烈に指摘したのがこの作品だ。

 ダスティン・ホフマンはさすがの存在感。「魔が差して」大勢の人命を救助してしまい、その事実を主張しても、普段の行いが悪いので誰も信じてくれない。小柄でひょこひょこ歩く姿は、憎めない皮肉屋の小悪党の具現化そのものだ。

 一方、ホフマンの手柄をひょんな事で横取りしてしまうのがアンディ・ガルシア。ホームレスのむさ苦しい姿から、後半はオールバックのいつものスタイルに。「魔が差して」詐欺を働いてしまった聖人君子のような人間と、これもまたはまり役と言っていいだろう。

 ラスト近く、ホフマンが息子に向かって言うセリフ。「どうせ世の中に真実なんかない。みんな嘘っぱちだ。だからお前が一番気に入った嘘を信じればいい。」マスコミや情報社会を痛烈に揶揄するこの一言の鋭さ。

指導者以前2018年05月30日 18:11

 アメリカン・フットボールの事件。

 厳しい裁定というより、もうはっきりとした断罪と言えるだろう。完膚なきまでに監督側の主張は否定されてしまった。

 傍証となる大量の資料やデータが入手できることすら、あの監督たちには理解できなかったのだろう。世の中は進んでいる。ズルを決め込み、暴力によって根拠のない権力を維持し、その責任を幼稚な強弁によって糊塗しようとする不逞の輩にとっては悪い方へ。虐げられ、言葉を奪われた人々にはよい方へ。

 そのような世の流れすら理解していない上に、客観的認識と自分自身の行動認識に大きな乖離もあったようだ。インカムを落とすどころか、ずっと持ちっぱなしで装着すらしていないことが映像ではっきり撮られている。コーチと選手との乖離どころか、自分自身の身体認識そのものが現実世界と乖離しているのだから、笑うに笑えない。

 ここまで来ると、健全な年長者とは到底呼べない。年長者は長い経験と、変化する目の前の事象とを的確につないで若い世代にアドバイスをする能力を持ったものを言う。いくら年格好ばかり上であっても、その能力(孔子が言うところの「耳順」である)がないのなら、指導者どころか、年長者失格である。彼は正しく齢を重ねることに失敗してしまったのだ。

 暴力と威嚇、脅迫によって他者を支配し隷属させるのは、獣の社会のシステムだ。奴隷と支配者の関係もまた獣性の延長にすぎない。それが支配の基盤となっている支配者は、当然そのような前人間的社会の勝組であったのだろう。人間未満の社会環境を構築するのが隷属支配ということになれば、それを打破し、新しい社会の構築を目指すのが学問と言える。この国の最高学府と呼ばれている大学というシステムの上位に、前人類的権力者が存在することもまた、大きな矛盾だ。

 このような前人類的存在が経営に参画し、人事に影響を与える可能性がわずかでも残っている限り、この問題は解決し得ないだろう。正しく「遊ぶ」には、社会的にも知的にも「人間」レベルであることが求められている。獣レベルの存在には「遊び」と「殺し合い」の区別などない。

 スポーツをおのれの権力欲の保持と、それに伴う隷属支配(これには経済的搾取ももれなくついてくる)の保守の手段とする獣レベルの存在に、遊びとしてのスポーツを委ねるわけにはいかないという人間レベルの存在が反撃したというのが、今回の事件の根底にある図式ではないのか。