与えられる「感動」2020年01月20日 22:59

 今年はオリンピックらしい。どうやら東京で行われるらしい。

 アマチュアが世界から集まって、楽しく技量を競う催しらしい。観客も観戦可能で、応援もできるらしい。

 スポーツもeスポーツも、本質的には同じで、参加者が楽しんでいることが前提だ。金や政治や観客の感動などは二次的なものに過ぎない。だからこそアマチュアであり、「遊び」であるべきだ。政治家風情や実業家風情がなんだかんだとお題目をつけるのはお門違いだ。

 オリンピックで感動しないとまともじゃないというような風潮はまっぴらだ。そんな行事が嫌いな存在だっているだろうし、それをとやかく言う権利は誰にもない。

 檜舞台に立つ選手の蔭に、どれほどの数の怪我人や事故被害者が隠れているか、そこに目を向けると、あまり気楽に応援する気にもなれない。

 なにも「遊び」から感動を与えられなければならないという法もない。感動するかしないかは、自分自身の感性や感覚であって、それはどこの誰にも指図されるべきものではない。感動するのは自分自身。感動の種こそ与えられもするだろうが、感動自体を「与え」てもらうような筋合いはない。