「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観る2021年12月28日 21:28

 「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観る。

 TBSが持っていた、東大全共闘と三島由紀夫との討論会の映像をまとめたもので、当時映像に残っている存命中の登場人物のインタビューも交えている。

 今の大学生(もちろん東大生を含む)から考えればとんでもなく抽象的な理論を展開した討論といっていいだろう。彼らは現実社会を必死になって理論でねじ伏せて血肉化しようとあがき、苦しんでいたようにも思える。ある意味滑稽でもあり、今の目からすれば空論と受け取る向きも多かろう。だが、彼らは必死に自分の持っている理論をつかって社会と切り結んでいるのであり、その心意気とそれを支える飢餓感は、飽食社会の我々の尺度で計るべきではない。

 その全共闘の仮想敵ともいえる存在が三島由紀夫である。場合によっては命がけともなりかねない場所で、単身乗り込む三島と東大全共闘だが、三島は真正面から全共闘を受け止め、受容し、真摯に、かつ実直に応えていく。東大全共闘も三島の話を真摯に聞き、笑い、やじり、対話する。

 結論というより、対話が主眼。虚飾を捨てた対話は清々しくもある。三島に最後まで食い下がり、自ら議論を打ち切って退席した全共闘メンバーの晩年の、三島を否定しつつどこか寂しげな姿が印象的だった。

「プラン9・フロム・アウタースペース」を観る2021年12月28日 21:41

 「プラン9・フロム・アウタースペース」を観る。

 あの、ティム・バートンが愛してやまない、悪名高い映画監督エド・ウッドの作品。もちろん徹底したB級、それも思い切り振り切ったB級映画。

 宇宙人が地球を侵略するのに、なぜゾンビ?この辺りからすでにエド・ウッド節全開だ。チープなセット、どう見ても後ろの出入り口にカーテンを引いただけの普通の部屋にしか見えない航空機のコクピット、昔休日午後にテレビでやっていたB級映画の雰囲気がする。

 そのくせ思いっきり正論の政治、社会批判が、やや脈略もなく飛び出すところがまた楽しい。「その心余りて、言葉足らず」は、紀貫之による在原業平の評価だが、まさにこの作品もそんな評価がぴったりだ。

 制作は1959年。1954年にはゴジラが東京を蹂躙し、1956年にはラドンが当時の福岡に飛来して屋根瓦を一枚一枚吹き飛ばし、1961年にはモスラが東京タワーに繭をかけて羽化。このチープな作品がSF映画だった時代を考えれば、円谷怪獣映画のクオリティが世界の度肝を抜いたのももっともだ。

 おおらかな気持ちで、笑って観よう。

「A Film About Coffee」を観る2021年12月28日 21:51

 「A Film About Coffee」を観る。2014年のドキュメンタリー映画。

 世界中で楽しまれているコーヒー。その享受の姿を追った作品。コーヒーに魅せられ、惚れ込んだ人たちの姿を追う。以外だったのが、日本の喫茶店が登場したところ。残念ながらこの作品公開時に、すでに取り上げられたうちの一軒は廃業とのこと。

 どうやら日本人は「〜道」というスタイルが好きな国民性を持っているようだ。この作品に登場する日本人のスタンスを見ると、どうもストイックに「コーヒー道」という武道を極めようとする求道者のイメージを強く感じる。それは次第に抽象化し、現実とのつながりを失ってしまうような気もするのだが。

 一方で、欧米では自分が惚れ込んだから、それを追求するというスタンスを感じる。自分が好きだから、自分の血肉として受容する。抽象化とい言うより、身体化、肉体化の傾向を感じる。

 そして、コーヒー豆の産地。貧困がはびこり、生産農家は自分が生み出したコーヒーの味すら知らない。カカオ豆の生産農家がチョコレートの味を知らないのと同じだ。

 こういった問題も、さり気なく提示しながら、おしゃれにまとまったドキュメンタリー。

2021年を振り返って2021年12月30日 20:30

 決していい年とは言えない一年だった、2021年

 思想・言論統制のきな臭さを振りまきながら明けた年だが、所詮人事権を振り回して他人を支配しようとするしか手法のない連中に、人間社会などという仮想現実などとはこれっぽっちも関わりのないウィルスに対抗する術などあるはずもなく、社会は混迷し、政治は少なくとも軌道を変えつつあるように見える。

 円安になれば輸出産業が盛り返して景気が戻るという、楽観的な政策もまた怪しくなってきた。この国は、輸出しようにも、その原材料や燃料、資源、そして食料の半分以上を「輸入」しなくてはならない。おまけにCOVID-19の影響で輸入コストは跳ね上がり、一部成金企業を除いて、ほとんどの国民は給与上昇もないまま生活コストの上昇で経済的に疲弊。人件費をコストカットすることが経営の王道などと、目先のそろばんに振り回され続けた結果、購買力の低下が経済を縮小させ、非正規雇用だよりで将来の購買層への投資を怠った結果、失業と貧困は一気に加速。マイクロソフトに隷属し続け、オープンソースへの参画に及び腰だった結果、IT関連技術者も枯渇。人材育成しようにも、育成者すらいない体たらく。イギリスのように、小学生に対してRaspberry PiやBBCのmicrobitのような安価で高性能の教育用コンピュータを導入するどころか、やたら高額なタブレットやPCでアップルやマイクロソフトやグーグルに隷属し続ける(LinuxもPythonも満足に教えられない)ようでは、先が思いやられる。

 スポーツ界のどうしようもなさも白日のもとにさらされた。金と暴力にどっぷり浸かり、権力ボケした連中がのさばって、末端のスポーツ従事者を搾取、支配している。海外に拠点があるいくつかの種目団体には気骨のあるところがある(特にテニス)が、国内は惨憺たるものだ。某国際運動会に至っては、唾棄すべき茶番としか言いようがない。アウェーの選手の不利な状況とホームの選手の有利さを考えると、脳天気に金メダルが史上最高などと言える神経が信じられない。勝負は時の運というから、選手個人個人の努力と勝敗についてはとやかく言うつもりはないが、彼らはスポーツをしたいという大前提でスポーツに取り組んでいるだけであり(そうでないのなら、強制されたか、仕事かのどちらかであり、スポーツではなく労働だ)、今回のような状況では、見る側が素直に感動できるかどうかは別物だ。選手が「感動を与える」などというのは筋違い。感動は見る側が勝手にするものだ。少なくとも私は感動以前に運動会開催そのものを、某会長の言動を通じて屈辱的行為だと感じてしまったため、結局全く視聴していない。断片的に映像や音声にふれることはあったが、どれも苦々しいものとしてしか受け取れなかった。その後も某大学のスポーツ界絡みの人物の人脈による腐敗など、スポーツ界そのものへの嫌悪が一気に膨れ上がった一年だった。

 COVID-19は社会の歪や腐敗も容赦なくさらけ出した。いいものも悪いものも関係なく、一気に叩き壊した。善人にもゲスにも、平等に襲いかかった。そしてそれはこれからも続く。昨日の成功はもう通用しない。昨日の常識はもう破壊された。2022年はご破産の次の一珠を入れる年だ。願わくは腐りきった過去の残滓ではなく、新しいものを積み重ねていきたい。