海苔波型 ― 2022年04月17日 16:53
今のCDの音をPCで取り込んで、波形を見ると、大抵の場合、波形はギザギザではなく、ほぼべったり。
四角い味付け海苔のような波形なので、海苔波形とも呼ばれるらしい。もちろん音楽としてもこれは不自然。だが、音圧をあげる(配信や放送でボリュームが大きく聞こえて耳につきやすいため、CM効果が狙える)ため、リマスターやらなにやらで、この形にしてしまうらしい。
邦楽では海苔波形の上にすでに音割れまで起こしているものまである。洋楽も事情はあまり変わらないが、それでも音割れまでひどいリマスターは最近は減っている。
同じ曲でも、古いCDは海苔にされる前の波形で記録されていることがあり、そういう古いCDは、たしかに音圧が低く感じて、スマホなどの貧弱な環境では音が小さくなるし、海苔波形のほうがよく聞こえるような気もする。
だが、ちゃんとしたスピーカーとアンプを通して聞けば(高級品というわけではない。家電店で手に入るミニコン程度)、海苔波形ではない曲には、演奏している場所の空気感のようなものがはっきり感じ取れる。海苔波形ははっきり言って「下品」に感じる。もちろん「下品」な音でないとつまらない曲もあるし、「下品」な音のほうが聴く人の歴史において好ましい場合もある。「上品」だけでは音楽はつまらない。
それでも、アナログレコードが復権し、「音がいい」と若者たちに受け入れられるのは、アナログレコードには海苔波形をわざわざ作る必要がないからではないか。海苔波形には、CDの中にいかに無駄なく音を詰め込んででかい音を聞かせるかという、算盤勘定が見え隠れする。ある意味「しみったれ」たテクニックだ。
「上品」も「下品」も、道楽なのだから、「しみったれ」と「効率」は相容れない。音圧が足りなければボリュームを上げればいいという人もいるが、フルボリュームの振動に耐えられる筐体をもったゼネラルオーディオは少ないし、ヘッドフォンやイヤフォンでそんなことをすれば、あっという間に難聴だ。海苔波形を作るのは簡単で、コストもさほどかからないだろう。それは「効率」なのだろうが、安価でフルボリュームでもビビらない、まっとうな筐体の再生機器を作るほうが道楽としては「上等」のような気がする。もちろん「上等」と「上品」は同じではない。
そういえば100均などでもよく目にするスマホ用のミニホーンシステムは、そういう「上等」な工夫の商品なのだろう。本気でスマホ用のスピーカーホーンを木製で作成する人もいて、再生音を聞いたこともあるが、なかなかいい音(モノラルだが)だった。
料理も音楽も(その他も)、やっぱり「上等」を狙うと、最後は自作に行き着くのかもしれない。
四角い味付け海苔のような波形なので、海苔波形とも呼ばれるらしい。もちろん音楽としてもこれは不自然。だが、音圧をあげる(配信や放送でボリュームが大きく聞こえて耳につきやすいため、CM効果が狙える)ため、リマスターやらなにやらで、この形にしてしまうらしい。
邦楽では海苔波形の上にすでに音割れまで起こしているものまである。洋楽も事情はあまり変わらないが、それでも音割れまでひどいリマスターは最近は減っている。
同じ曲でも、古いCDは海苔にされる前の波形で記録されていることがあり、そういう古いCDは、たしかに音圧が低く感じて、スマホなどの貧弱な環境では音が小さくなるし、海苔波形のほうがよく聞こえるような気もする。
だが、ちゃんとしたスピーカーとアンプを通して聞けば(高級品というわけではない。家電店で手に入るミニコン程度)、海苔波形ではない曲には、演奏している場所の空気感のようなものがはっきり感じ取れる。海苔波形ははっきり言って「下品」に感じる。もちろん「下品」な音でないとつまらない曲もあるし、「下品」な音のほうが聴く人の歴史において好ましい場合もある。「上品」だけでは音楽はつまらない。
それでも、アナログレコードが復権し、「音がいい」と若者たちに受け入れられるのは、アナログレコードには海苔波形をわざわざ作る必要がないからではないか。海苔波形には、CDの中にいかに無駄なく音を詰め込んででかい音を聞かせるかという、算盤勘定が見え隠れする。ある意味「しみったれ」たテクニックだ。
「上品」も「下品」も、道楽なのだから、「しみったれ」と「効率」は相容れない。音圧が足りなければボリュームを上げればいいという人もいるが、フルボリュームの振動に耐えられる筐体をもったゼネラルオーディオは少ないし、ヘッドフォンやイヤフォンでそんなことをすれば、あっという間に難聴だ。海苔波形を作るのは簡単で、コストもさほどかからないだろう。それは「効率」なのだろうが、安価でフルボリュームでもビビらない、まっとうな筐体の再生機器を作るほうが道楽としては「上等」のような気がする。もちろん「上等」と「上品」は同じではない。
そういえば100均などでもよく目にするスマホ用のミニホーンシステムは、そういう「上等」な工夫の商品なのだろう。本気でスマホ用のスピーカーホーンを木製で作成する人もいて、再生音を聞いたこともあるが、なかなかいい音(モノラルだが)だった。
料理も音楽も(その他も)、やっぱり「上等」を狙うと、最後は自作に行き着くのかもしれない。
吉野家にからむ「不適切発言」 ― 2022年04月19日 21:47
なんとも呆れ果てた「不適切発言」というより、完全に「暴言」である。若い女性に継続して吉野家を利用してもらうための戦略と称して、大昔のエロ小説かエロビデオ(わざとそう言っている。今は別の表現になっている)なみの、あのいやらしく下品極まりないオヤジ天国全盛期のような比喩を使ったという件だ。
若い女性の継続利用を、依存性薬物中毒に例えたうえ、そうでもしないと若い女性は二度と利用しないとまで言ったという。そんなサービスしか展開していないのなら、女性ならずとも利用者は去る。そんな実態を内部告発でもしたかったのかといえば、自分の戦略を大学で講演している中での発言というのだから、内部告発などありえない。
ここで2つの問題が浮かび上がる。まず、この発言を行った常務(元)は、自社のサービスを「理性を失った状態の顧客」でない限り、継続利用しない程度のものであると認識しているということ。自社の同僚あるいは部下に対する敬意などかけらもない。明らかに背任行為である。もう一つは、自分の所属する企業が提供するサービスが「依存性薬物」に例えられているということ。自社のサービスを反者会的な薬物に例えるなど、どうしようもない侮辱行為である。たとえ冗談と本人が言ったところで、そのような「冗談」をわざわざ選択するのだから、よほどの自虐性癖の持ち主でもない限り、本音の発露と考えられても致し方あるまい。吉野家の全社員が激怒しても当然の言い草だ。
さらに「性的経験の少ない(あるいはない)女性」と限定して引き合いに出し、「依存性薬物中毒」状態におくという比喩には、性的な経験も含めた経験不足の女性の理性を剥奪し、支配下に置こうという概念が明確に表れている。現代では性的異常者の引き起こす犯罪と言うべき内容である。「若くて経験が多くない女性を、経験を積む前に理性を奪って支配してしまえ」という考えを、「企業戦略」の比喩として用いることの不適切さに気づかないのは、それが「当たり前」だと認識していることを表していると疑われても致し方ない。
時代遅れのエロジイイ(むかしは「ヒヒジジイ」とも言っていた)なら喜びそうなたとえ話である。当該常務(元)は、早稲田大学の社会人講座にはそういう御仁が集まってくるとでも考えていたのだろうか。そうなら早稲田大学に対する侮辱でもある。もちろんその講座を受講しようとした人たちに対する侮辱でもある。それとも、社会人である受講者に、自分と一緒に「経験不足の若い女性」を「薬物依存状態」にして、いいように支配しようとでも語りかけたかったのだろうか。女性受講者も目の前にいたというのに。
常務(元)は、聞けば成功者として著名だったと言われている。金も名声もあっただろう。つまりは「権力者」である。「経験不足の若い女性」を「薬物依存状態」にしようなどと発言する自分自身が、権力という危険極まりない薬物に「依存状態」となっていることを、無意識のうちに暴露していたのかもしれない。それともすでに依存が進み、腐敗状態となった常務(元)の腐臭が言葉として漂いだしたのかもしれない。
権力という薬物に依存し、腐臭を撒き散らす人間の例は古今東西を問わず、枚挙に暇がない。どんな人間も、権力に身を晒せば、腐敗は免れない。学歴も、得点力も、家柄も、お構いなしだ。どんな小さな「権力」も、必ず人を腐敗させる。腐敗から逃れる方法は一つ。「権力」を極力遠ざけること。持ってしまった「権力」は、「依存」が始まる前に棄てるか、行使を極力避けること。「権力漬け」の末路は誰にとっても悲惨な結果となる。「権力」は一人では持つことができないからだ。
私も激怒している。人としても、男としても。
若い女性の継続利用を、依存性薬物中毒に例えたうえ、そうでもしないと若い女性は二度と利用しないとまで言ったという。そんなサービスしか展開していないのなら、女性ならずとも利用者は去る。そんな実態を内部告発でもしたかったのかといえば、自分の戦略を大学で講演している中での発言というのだから、内部告発などありえない。
ここで2つの問題が浮かび上がる。まず、この発言を行った常務(元)は、自社のサービスを「理性を失った状態の顧客」でない限り、継続利用しない程度のものであると認識しているということ。自社の同僚あるいは部下に対する敬意などかけらもない。明らかに背任行為である。もう一つは、自分の所属する企業が提供するサービスが「依存性薬物」に例えられているということ。自社のサービスを反者会的な薬物に例えるなど、どうしようもない侮辱行為である。たとえ冗談と本人が言ったところで、そのような「冗談」をわざわざ選択するのだから、よほどの自虐性癖の持ち主でもない限り、本音の発露と考えられても致し方あるまい。吉野家の全社員が激怒しても当然の言い草だ。
さらに「性的経験の少ない(あるいはない)女性」と限定して引き合いに出し、「依存性薬物中毒」状態におくという比喩には、性的な経験も含めた経験不足の女性の理性を剥奪し、支配下に置こうという概念が明確に表れている。現代では性的異常者の引き起こす犯罪と言うべき内容である。「若くて経験が多くない女性を、経験を積む前に理性を奪って支配してしまえ」という考えを、「企業戦略」の比喩として用いることの不適切さに気づかないのは、それが「当たり前」だと認識していることを表していると疑われても致し方ない。
時代遅れのエロジイイ(むかしは「ヒヒジジイ」とも言っていた)なら喜びそうなたとえ話である。当該常務(元)は、早稲田大学の社会人講座にはそういう御仁が集まってくるとでも考えていたのだろうか。そうなら早稲田大学に対する侮辱でもある。もちろんその講座を受講しようとした人たちに対する侮辱でもある。それとも、社会人である受講者に、自分と一緒に「経験不足の若い女性」を「薬物依存状態」にして、いいように支配しようとでも語りかけたかったのだろうか。女性受講者も目の前にいたというのに。
常務(元)は、聞けば成功者として著名だったと言われている。金も名声もあっただろう。つまりは「権力者」である。「経験不足の若い女性」を「薬物依存状態」にしようなどと発言する自分自身が、権力という危険極まりない薬物に「依存状態」となっていることを、無意識のうちに暴露していたのかもしれない。それともすでに依存が進み、腐敗状態となった常務(元)の腐臭が言葉として漂いだしたのかもしれない。
権力という薬物に依存し、腐臭を撒き散らす人間の例は古今東西を問わず、枚挙に暇がない。どんな人間も、権力に身を晒せば、腐敗は免れない。学歴も、得点力も、家柄も、お構いなしだ。どんな小さな「権力」も、必ず人を腐敗させる。腐敗から逃れる方法は一つ。「権力」を極力遠ざけること。持ってしまった「権力」は、「依存」が始まる前に棄てるか、行使を極力避けること。「権力漬け」の末路は誰にとっても悲惨な結果となる。「権力」は一人では持つことができないからだ。
私も激怒している。人としても、男としても。
色恋沙汰まで… ― 2022年04月21日 21:56
恋愛支援?教育に「壁ドン、告白・プロポーズの練習、恋愛ゼミ」などを組み込む?
内閣府の研究会で社会学の教授が提案したのだそうだ。
トップに「壁ドン」と来るのだから、主体はおそらく男性を想定しているのだろう。主語省略をしているのだから、それ以下の並列表現の主語もまた男性であると考えていい。「告白・プロポーズの練習」をするのも男性、「恋愛ゼミ」の受講対象もまた男性ということか。
底辺に恋愛は男性主導のものだという概念が紛々と漂っている。「オヤジ天国」パラダイムにへばりついた、腐臭紛々たる発想だ。
「壁ドン」は脅迫そのもの。力による威圧によって相手を支配する行動の一つである。国産み神話ではあるまいし、告白やプロポーズを女性が行うことも「バレンタインデー」なる奇態な習慣があったこの国ではすでに不自然ではない(チョコレートという女性からの告白に鼻の下を伸ばし、血道を上げている男のなんと多かったことか)。
「恋愛ゼミ」など、まさにいらん世話である。恋愛の仕方を指導して、それに外れれば減点でもされるというのか。
そんな小手先の「オヤジ天国」テクニックは、青年向けのナンセンス恋愛講座にまかせておけばいい。むしろそんなテクニックを追いかけなければならないほど恋愛に不如意な状況に人を追い込むこの社会の「生き物無視」の人間認識の方を改めるべきだ。
性愛を極端に否定し、処女受胎という離れ業まで生み出したキリスト教文化の性愛否定の根拠についての認識が薄いまま、性愛に対するタブーだけを無批判に受け入れ(そうしないと西欧列強から野蛮と思われてしまうから)、タブーによる人間性抑圧(人間も動物であることを否定し、特別視することによる歪み)からの開放としての性愛を、ただの「猥褻」としてしか捉えることのできなかった(せいで、最高裁で小説内の架空の女性主人公の不倫はけしからんという奇妙奇天烈な論述が展開された)この国の問題点は棚に上げているのだから、「社会学」とは絵空事となってしまったのかと心配にもなる。
好いた惚れたの色恋沙汰は、個人が社会と衝突し、社会による人間性の抑圧を明るみに出し、抑圧的社会の中で人として生きようとするために重要なものであり、人が人であることを社会の暴力から守る砦の一つだ。人として誰にも侵犯されてはならない「心」の重要な部分の一つだ。それをよそからああするべきだ、こうするべきだと言われる筋合いはないし、言うべきではさらさらない。色恋沙汰を、恋愛を、未だにスケベ親父がニヤニヤ笑って楽しむエロネタ程度にしか認識していないことこそが問題の本質だろう。
人を何だと思っているのか。
内閣府の研究会で社会学の教授が提案したのだそうだ。
トップに「壁ドン」と来るのだから、主体はおそらく男性を想定しているのだろう。主語省略をしているのだから、それ以下の並列表現の主語もまた男性であると考えていい。「告白・プロポーズの練習」をするのも男性、「恋愛ゼミ」の受講対象もまた男性ということか。
底辺に恋愛は男性主導のものだという概念が紛々と漂っている。「オヤジ天国」パラダイムにへばりついた、腐臭紛々たる発想だ。
「壁ドン」は脅迫そのもの。力による威圧によって相手を支配する行動の一つである。国産み神話ではあるまいし、告白やプロポーズを女性が行うことも「バレンタインデー」なる奇態な習慣があったこの国ではすでに不自然ではない(チョコレートという女性からの告白に鼻の下を伸ばし、血道を上げている男のなんと多かったことか)。
「恋愛ゼミ」など、まさにいらん世話である。恋愛の仕方を指導して、それに外れれば減点でもされるというのか。
そんな小手先の「オヤジ天国」テクニックは、青年向けのナンセンス恋愛講座にまかせておけばいい。むしろそんなテクニックを追いかけなければならないほど恋愛に不如意な状況に人を追い込むこの社会の「生き物無視」の人間認識の方を改めるべきだ。
性愛を極端に否定し、処女受胎という離れ業まで生み出したキリスト教文化の性愛否定の根拠についての認識が薄いまま、性愛に対するタブーだけを無批判に受け入れ(そうしないと西欧列強から野蛮と思われてしまうから)、タブーによる人間性抑圧(人間も動物であることを否定し、特別視することによる歪み)からの開放としての性愛を、ただの「猥褻」としてしか捉えることのできなかった(せいで、最高裁で小説内の架空の女性主人公の不倫はけしからんという奇妙奇天烈な論述が展開された)この国の問題点は棚に上げているのだから、「社会学」とは絵空事となってしまったのかと心配にもなる。
好いた惚れたの色恋沙汰は、個人が社会と衝突し、社会による人間性の抑圧を明るみに出し、抑圧的社会の中で人として生きようとするために重要なものであり、人が人であることを社会の暴力から守る砦の一つだ。人として誰にも侵犯されてはならない「心」の重要な部分の一つだ。それをよそからああするべきだ、こうするべきだと言われる筋合いはないし、言うべきではさらさらない。色恋沙汰を、恋愛を、未だにスケベ親父がニヤニヤ笑って楽しむエロネタ程度にしか認識していないことこそが問題の本質だろう。
人を何だと思っているのか。
GW目前 ― 2022年04月23日 22:15
GW目前。
人の移動も多くなる。自粛されてきたイベントもそろそろ復活の兆し。
我慢の2年間のリバウンドがCOVID-19のリバウンドを呼ばなければよいが。
人の移動も多くなる。自粛されてきたイベントもそろそろ復活の兆し。
我慢の2年間のリバウンドがCOVID-19のリバウンドを呼ばなければよいが。
「ヒトラーを殺し、その後ビッグフットを殺した男」を観る ― 2022年04月24日 23:19
「ヒトラーを殺し、その後ビッグフットを殺した男」を観る。2018年のアメリカ映画。
タイトルからして、B級映画の匂いがふんぷんと漂ってくる。上映時間も98分。これはやっぱりB級で、劇場で観るとお金がもったいないたぐいの(でも好物なのだが)、アマプラ万歳作品と思って観始めた(なにせあの「こっくりサメ」の余韻もまだ残っているし…)。
ところが、予想に反してこれはなかなか渋めのいい映画だった。老齢のうらぶれた(でも金は持っているらしい)爺さんが行きつけの安バーで飲んでいるシーンから始まるが、この爺さん、チンピラに絡まれてやられるかと思いきや、めっぽう強い。見事にチンピラ3人を瞬殺モードでのしてしまう。ただものではない!
フラッシュバックで描かれるこの爺さんの過去、そして心の傷。この映画のポイントはこの部分であって、言ってしまえばヒトラーもビッグフットも出てくるには出てくるが、これはもう単なる象徴の具象化に過ぎない。人類規模の災厄の隠喩として設定され、それに立ち向かうための犠牲を背負う一人の男の人生の話となっている。
もちろんツッコミどころはある。尺の短さが強引さにつながっているところもある。しかし、謎をわかりやすく説明するような野暮なことをせず、暗示のみで止めたり、主人公の爺さんの人生を暗示するかのようなシーンが一見無関係なふうに挿入されたりと、仕掛けはたっぷりだ。タイトルの際っぽさは本質に関する暗喩にすぎないことがよく伝わってくる。「ウルトラセブン」のエピソード「狙われた街」のように。
爺さんを演じたサム・エリオットが本当にいい味を出している。この人でなかったらこの作品は成立しなかったかもしれない。背負った辛く悲しい過去を、重すぎず、軽すぎずに演じて、重要な決断をするときも渋く、大げさではなく、ためらいながらも一歩踏み出す感じがいい。爺さんの弟役のつかず離れず、優しく兄を見つめ、尊敬する姿もいい。音楽も安っぽく盛り上げに走ったりセずに押さえたトーンで、タイトルの際っぽさを相殺している。
タイトルは原題の直訳。このタイトル自体が暗喩である。これは隠れた(そして誤解されがちな)いい作品だ。拾い物だった。
ちなみに、ベッドの下の木製トランクの中…劇中では最後まで開かれないが、考えれば察しがつく。そういう奥ゆかしさもいい。
タイトルからして、B級映画の匂いがふんぷんと漂ってくる。上映時間も98分。これはやっぱりB級で、劇場で観るとお金がもったいないたぐいの(でも好物なのだが)、アマプラ万歳作品と思って観始めた(なにせあの「こっくりサメ」の余韻もまだ残っているし…)。
ところが、予想に反してこれはなかなか渋めのいい映画だった。老齢のうらぶれた(でも金は持っているらしい)爺さんが行きつけの安バーで飲んでいるシーンから始まるが、この爺さん、チンピラに絡まれてやられるかと思いきや、めっぽう強い。見事にチンピラ3人を瞬殺モードでのしてしまう。ただものではない!
フラッシュバックで描かれるこの爺さんの過去、そして心の傷。この映画のポイントはこの部分であって、言ってしまえばヒトラーもビッグフットも出てくるには出てくるが、これはもう単なる象徴の具象化に過ぎない。人類規模の災厄の隠喩として設定され、それに立ち向かうための犠牲を背負う一人の男の人生の話となっている。
もちろんツッコミどころはある。尺の短さが強引さにつながっているところもある。しかし、謎をわかりやすく説明するような野暮なことをせず、暗示のみで止めたり、主人公の爺さんの人生を暗示するかのようなシーンが一見無関係なふうに挿入されたりと、仕掛けはたっぷりだ。タイトルの際っぽさは本質に関する暗喩にすぎないことがよく伝わってくる。「ウルトラセブン」のエピソード「狙われた街」のように。
爺さんを演じたサム・エリオットが本当にいい味を出している。この人でなかったらこの作品は成立しなかったかもしれない。背負った辛く悲しい過去を、重すぎず、軽すぎずに演じて、重要な決断をするときも渋く、大げさではなく、ためらいながらも一歩踏み出す感じがいい。爺さんの弟役のつかず離れず、優しく兄を見つめ、尊敬する姿もいい。音楽も安っぽく盛り上げに走ったりセずに押さえたトーンで、タイトルの際っぽさを相殺している。
タイトルは原題の直訳。このタイトル自体が暗喩である。これは隠れた(そして誤解されがちな)いい作品だ。拾い物だった。
ちなみに、ベッドの下の木製トランクの中…劇中では最後まで開かれないが、考えれば察しがつく。そういう奥ゆかしさもいい。
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