羊文学「our hope」を聴く2022年06月03日 20:00

 羊文学のアルバム「our hope」を聴く。

 なぜかCDよりハイレゾ音源のほうが若干安価だったので、配信を購入。

 かなり社会的・政治的な香りのする曲が多いように感じる。悲劇的な終末を受け入れながら今を生きようとする人を描く「光るとき」や、ジャンクな幸せを詰め込まれ、それに不満を言うすべもないが、どこか満たされない、漠然とした不安を訴える「金色」「くだらない」といった曲も面白い。まだまだメジャーというわけではないからこそ、妙な横槍も入らずにこういう曲が歌えるのだろう。だが、メジャーな芸能人がテレビで政治や社会への不満を語るとバッシングされるこの歪んだ正義がまかり通る世の中で、ちゃんとそういう歌が歌えるということを知らせてくれたのは、うれしい。また、その中でユーミン的な曲の「パーティはすぐそこ」がポコッと収められているのも面白かった。

 ただ…致し方ないのだろうが、コンプレッサーを際限なくかけまくり、音圧を無理やり引き上げて、過剰包装・合成着色料まみれとなっている音質は。この国のpops音源として相変わらず辛い。楽器の定位も減衰余韻もあったものではない。商品として売り込もうとした結果、音楽作品をスポイルするこの歪んだ音楽業界は、なんとかならないものか。

 かつて九州芸術工科大学という、日本で唯一のレコーディング・エンジニアを養成する課程を持った国立大学が存在したが、九州大学に併合合併され、規模が縮小されたらしい。そういう場が今、この国の音楽業界には必要かもしれない。

「シン・ウルトラマン」を観る2022年06月04日 20:58

 「シン・ウルトラマン」を観る。コロナ禍で公開が遅れ、やっと公開された作品。

 まず、あのカラータイマーがない。これは当初の成田享のオリジナルデザインを踏襲したもの。あのカラータイマーは大人の事情で後付けされた上、3分間という設定は小学館の学習雑誌あたりが作った設定である。オリジナルの「ウルトラマン」の変身シーンを見れば、明らかにカラータイマーはない。

 しかし「銀色の巨人」は本当に銀のメタリック光沢で再現されている。ここはCGの強みだろう。だからこそ最初にウルトラマンを目撃した時の浅見弘子のため息混じりの言葉「…きれい…」が生きる。そう、このウルトラマンは「強い」「かっこよい」ではなく、「きれい」なのである。そこから「神性」も自然と生まれてくる。

 ウルトラマンが地球上での素体としたのは神永新二。演じる齊藤工の世離れした佇まいがマッチしている。ウルトラマン化した神永はあくまで「外星人」として人間を観察、評価しているので、彼の言動はミスター・スポックかデータ少佐のようにどこかズレているのだが、それがわざとらしくない。年齢の点もあるが(若いと「ウルトラマンメビウス」の「不思議ちゃん」となってしまう)、超然とした姿がいい。

 オリジナルのウルトラマンは、護送中の怪獣を取り逃がした挙げ句、怪獣逃走先の現住知的生命体(ハヤタ)と衝突して殺害するという二重の不始末をしでかし、怪獣は現地で殺処分、ハヤタを素体にしている(人格はどうやら今回のウルトラマンよりもうまく統合しているようだが)ことで罪滅ぼしをしようとしているフシはあるが、結局上司のゾフィーに尻拭いしてもらうなど、冷静に考えればとんでもない奴ではある。今回のウルトラマンも人類に対しては大きな過失をしでかすのだが、彼は文字通り命がけでその失地を挽回しようとする。「神」としてのウルトラマンから、一つの生命体として、地球人と共にある存在として変化していく過程は、「ウルトラマンメビウス」の影響を感じる(そういえば「ウルトラマンは神ではない」という言葉も、「ウルトラマンメビウス」の中でハヤタ=ウルトラマンがメビウスに告げた言葉だったように記憶している)。

 オリジナルのチープな部分をあえて残しているような部分や、オリジナルの有名なチョップのリアクションなど、オールドファンには笑える点も。一方で怪獣の着ぐるみを改造して制作費と制作時間を削るという大人の事情の部分を設定によって説明付けるところも、オリジナルに対する敬意だろう。そんな中でオリジナルには見られない「生と死」をテーマとした後半は、「ウルトラマン」というアイコンに執着する観客には辛いかもしれない。

 第二期ウルトラマンや平成ウルトラマンをベースにしている観客には、普通の映画と受け止められるだろう。第一期を期待する観客には、後半が辛いだろう。だが、ウルトラマンという作品に対する昨今の様々な言説を楽しんできた観客には面白く感じるのではないか。アイコンに隠された重いテーマ(「ウルトラセブン」にはその面がクローズアップされてくる)を考えると、「シン・ウルトラマン」は、多様性と受容、コミュニケーションと信頼の物語である。

 そうそう、「シン・ゴジラ」では最大のウィークポイントはヒロインの軽薄さが拭いきれないところだった。どう考えてもあのヒロインが次期大統領候補を狙えるとは思えない(「アイアン・スカイ」のアメリカならともかく…)。今回のヒロインは、知性をきちんと感じる。だから多少コメディリリーフがあっても、地に足がついたキャラクターとして機能している。空々しささえ感じた「シン・ゴジラ」の二人とは対象的で、今回の神永=齊藤と浅見=長澤には十分感情移入できる。このあたりは「ウルトラセブン」の雰囲気だ。

 余談だが…もし「シン・ウルトラセブン」ができるとしたら、物語の最後、「ダンは死んで帰っていく」んだろうか…

「メッセージ」を観る2022年06月06日 22:30

 「メッセージ」を観る。2016年のアメリカ映画。

 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品。これも縁がなかった作品だが、やっとじっくり観ることができた。

 原作はテッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」。エイリアンの言語を研究、習得するうちに、エイリアンの思考体系が取り込まれて云々は、古くはサミュエル・R・ディレイニーの未完の作品、「バベル17」の大ネタでもあるのだが、あちらがワイドスクリーン・バロック的な大風呂敷だったのに対して、こちらはほろ苦い。

 エイリアンであるヘプタポッドにとっても、主人公のルイーズにとっても、種族全体に対しては大きな貢献をしながら、プライベートではその代償として大きな傷を背負い、大きな損失を被ることになる。

 未来を知ることができないゆえの恐怖、その恐怖が生み出す暴力。これは今まさに世界中で繰り広げられている状況そのものだ。しかし、未来を知ることができるゆえに背負わなければならないものもまた大きく、重い。

 ヴィルヌーヴ監督作品らしく、静謐な作品。ハデな音楽演出はなく、いかにもハリウッド的な盛り上げ工作などどこ吹く風。こういう作品、好みである。原作は書簡体小説で、さすがにそれは映画にするには難しいため、原作ならではの哀しみやユーモアが活かしづらくなったのは残念だが、この静謐さがルイーズの哀しみをしみじみと感じさせることにもなる。原作を知っているなら1度でも味わえるが、映画のみなら、1度目でストーリーを把握してから2度目に観ると、よりルイーズの表情の意味が伝わる。

 アメリカ映画とはいえ、主な撮影場所はカナダ、監督もカナダ人。明らかに色合いが違い、ヨーロッパ的な映画だと感じる。

軽い言葉2022年06月07日 20:39

 ここしばらく、財界人の失言やツイッターでの不適切投稿が多いと感じる。

 思いつきをわずか100字少々で発信するツイッターというサイトで一国や世界の政治を、経済を語るのは、本当に適切なのか。ユーザーが多いから、支持を集められるからと言うが、そんな発言を支持する判断もまた、本当に適切なのか。

 ひらめきで発する100字あまりの言葉に、国や世界を支える重さがあるのだろうか。

 かつて「あー、うー」と揶揄された政治家がいた。彼曰く「みなさん、私をあー、うーとおっしゃるが、どういうお話をどういう言葉で話せばみなさんにきちんと伝わるか、考えているとつい、あー、うーとなってしまうのです」。

 失言連発の政治家や財界人の発言やツイッターの投稿と、「あー、うー」と、どちらの言葉のほうが重いのか、軽いのか。言葉の軽さは思考の薄さの裏返しでもある。どちらの発言者に、自分や自分の家族の命と生活を預けるべきか。

それが「戦争」2022年06月12日 14:59

 子どもが、一般市民が殺される。性被害が続出する。捕虜の扱いに人権が保障されない。町が瓦礫になり、使う言葉も変えられる。

 ウクライナの話ではない。これは戦争すべてに共通だ。善も悪も、攻撃も防御も、前線も銃後もない。戦争が残すのは、遺体と瓦礫と怨恨と傷だけだ。勝ったと言われる側は、その上に正義だ、大義だ、勝利だと厚化粧をするが、一皮むけばその下には負けた側と同じ惨状が広がっている。いや、勝ったとされる側は、傷を厚化粧で隠す分、余計たちが悪いかもしれない。

 それがわかっているから、二度の世界大戦の後、世界中で厭戦機運が高まり、平和を目的とした国際機構を作ろうとする機運が生まれた。ほんの僅かの間ではあるが。

 喉元すぎればなんとやら。いつの間にか戦争は記号に、戦死者は数字に、被害はセピア色の映像に変わり、リアルからヴァーチャルなものにされていく。ヴァーチャルになってしまえば、あとは妄想の暴走まで紙一重だ。かつての栄光、強かった我が国etc、etc。厚化粧でゴテゴテに飾られたノスタルジーが人々から理性を奪い、短絡的感情が記号と結びつく。

 世界中に戦争の陰が広がっている。この国もすでにそうだ。我々もまた、リアルな「死」を見失っている。