アップル値上げ2022年07月02日 10:03

 アップルが突然大幅値上げに踏み切ったと言う。

 修理する意思も責任もなく、壊れたら新品と取り替えてやるという商法はメーカーとして信頼できないと考えているので、わが家にアップル製品は昔々のiPodしかないし、iPhoneなどというバッテリーがダウンすればただのゴミと化す(もっとも近年はバッテリー交換サービスもされるようになったらしいが)代物に10万円近く支出するほどの財力もないので、これに関しては何一つダメージはない。

 だが問題は、値上げの原因が円安であるということだ。そしてこの国は食料自給さえままならず、輸入に頼っている。食料だけではない。衣料も日用雑貨も。

 アップルが大幅値上げしたところで、飢えて死ぬ国民はいない。だが、りんごが…食料が…すでに値上げ続きである。インフレの最大の要因は円安ではなく、円が国際信用を失い、価値を落とし続けていることにある。

 海外に生産拠点を作ったのは、海外の人件費が国内より安いから。その安さには日本の経済力、つまり円の国際価値の高さがあった。円の力に物を言わせ、低賃金労働環境を貪り、その甘い汁を吸い続けたこの国が、足元を救われている。似たような現象は80年前のヨーロッパ某国にもあった。それを思うとゾッとする。

「質の悪い子ども」とは?2022年07月03日 16:13

 某政党の党首とやらいう御仁が、マスメディアの番組の中で「質の悪い子どもを増やしては駄目だ」とのたもうたとか。

 その後に続くのがまた傑作。「将来納税してくれる優秀な子どもをたくさん増やしていくことが、国力の低下を防ぐ」のだそうだ。

 国に金を収めるのが優秀な子ども、国に尽くすのが優秀な子ども、国を儲けさせてくれるのが優秀な子ども。金払って養育するのだから、見返りを返すのが優秀な子どもだという算盤勘定が透けて見えるほどの透明度…というより底の浅さか。

 そのうちどこぞの誰かさんの誇大妄想的国家観のために命を棄てるのが優秀な子ども、そのために税金投入したのだぞなどと簡単に優秀の基準をすり替えられそうだ。

 わかりやすいのはけっこうだし、透明度の高い説明はあるべきだが、底の浅い思想は御免被る。

 第一、人類はその歴史の中で何一つ満足に自分たちの問題を解決しえていない。戦争・殺戮・犯罪・差別…どれもこれも根が深く、長い間の問題であって、簡単に解決できるものではない。だからこそ努力し続けなければ、せっかく手に入れた僅かな成果もあっという間に壊れてしまう。わかりやすくお手軽な解決方法などあれば、こんなに人類は苦労していない。わかりやすい政治、わかりやすい社会問題の解決法などないのだ。それを「わかりやすく」言うこと自体、眉唾ものである。

 もともと将来は不安なもの。予定調和などない。あぐらをかいてじっとしていれば幸せな極楽生活ができるなど、近年の日本のお子様向け恋愛映画よりもさらにナンセンスなことだ。金払ったんだから元よこせなどという呆れた理屈で育てた人間のどこが優秀か。第一、現実に払った金の元が取れる商売があるはずもなかろう。そんなことをしたら赤字てあっという間に倒産である。

 特定の政治家を批判しているわけではない。今回取り上げた発言は氷山の一角に過ぎない。人を人とも思わぬ言説はこの国だけでなく、世界中で、今だけではなく、過去からずっと、政治に携わる連中の口から吐き出し続けられている。そして、その延長にあるのは国家の分断か全体主義か、そのどちらかだ。同調圧力で有名なこの国は後者だろう。そして「全体主義」とくれば、最も有名なのはナチス・ドイツだ。

 ユダヤ人を搾取し、強制労働させ、そこで生み出された財を享受したドイツ国民は熱狂的にヒトラーを支持した。ユダヤ人搾取を正当化するために差別を利用し、夜郎自大的誇大妄想と金と欲望を国民にばらまくことで支持を集め、オカルトと無責任体勢の上に構築されたナチスの末路は周知の事実だ。

 あのファーストガンダムの中で、デギン・ザビが長男のギレン・ザビにヒトラーの話をすると、ギレンは明らかにヒトラーを知らずに話を打ち切ってしまい、デギンは「ヒトラーは滅んだのだぞ」と一人つぶやくというシーンがある。あのアニメのシーン(歴史教育もずさんな未来ってなにさと当時笑ったものだ)が。現実となって今、政治の世界で展開されているのではないと、切に思いたい。

「300」を観る2022年07月05日 20:26

 「300」を観る。2007年のアメリカ映画。ザック・スナイダー監督作品。

 フランク・ミラーのグラフィック・ノベル(これも古い、同じ史実を題材とした映画に触発されたという)「300」をもとにした、ペルシャ戦争の中でもスパルタ兵を特に有名にした玉砕戦、テルモピュライの戦いを映像化したもの。

 ケレン味たっぷりの映像、リアルと言うより、グラフィック・ノベルをそのまま実写化したような作品だ。その凝りっぷりがなかなかすごい。マッチョでストイックなスパルタの面々も、退廃的でパンキッシュなペルシャの面々も、動きや構図も、本気そのものである。これを観ると日本映画のマンガ実写化のレベルの低さが悲しくなる。芸能プロダクション主導のキャスティングなのか、金のかけっぷりなのか、はたまた制作側の原作に対するリスペクトや読みの浅さなのか…「シン・ゴジラ」や「シン・ウルトラマン」あたりはなんとか気を吐いているが、あれはどちらも最初から3次元である。

 ストイックな武人の世界は、どことなく侍をイメージする。日本の時代劇の侍はどことなく屈折した描写をされることも多いが、こちらのスパルタ人はまっすぐでわかりやすい。そこは紀元前のこと、まだ世界も若かったということか。

 史実の映像化なので、結末は当然わかっている。言ってしまえばネタバレなのだから、ファスト映画やネタバレ前提の観客にも受け入れやすいのではないか。鬱陶しい伏線もない。一直線に突っ走る清々しささえ感じる作品だ。

暴力について〜今回の事件について〜2022年07月09日 16:30

 暴力は最大の権力だと思う。誰でも行使することができ、誰もが圧倒的に他者に対して優位に立つことができる。自分に対する反論を完璧に封殺することができ、自分の恣意性を完璧に現実化できる。

 気に入らないやつは殺せ、である。

 これではあまりに身も蓋もないと感じるのだろうか、ここに一つ理屈をつけて婉曲化して、

 自分が「悪」だと思うやつは殺せ、となる。

 そのうち、自分を正当化したくてたまらなくなるので、自分をカットする。

 「悪」いやつは殺せ。である。かなり危ない。

 さらに「悪」というものが相対的なものだと気づくと、こう変換する。

 神仏に仇なすやつは殺せ。

 神仏がオカルト的だと感じると、こうする。

 社会の(世の中の・国の)敵は殺せ。

 そのうち暴走すると、究極はこうなる。

 自分以外は(信用ならないから)殺せ。

 もはや民主主義どころの騒ぎではない。暴力の本質はここにある。権力も同様。どちらも必ず人間を腐敗させ、他者の存在を否定するという副反応を持っている。自分がどこまでその腐敗の進行に耐えられるのか、どこまで他人の存在を許容できるのか。それがその人間の持つことができる「権力の限界」であり、ほとんどの場合、その限界はその人間が求める権力維持の時間より圧倒的に短い。

 テロで命を落とした元首相の生前の言動には、肯んずることのできないものもあったが、それは彼の生命と引き換えにするほどのものでは、断じてない。人間は完璧ではないのだから当然だ。気に入らなくても、同意できなくても、その人間の生命を強制的に剥奪することは誰にも許されない。生命の剥奪権がないのは政治家であっても、国家元首であっても、一般市民であっても同じだ。批判を受けながらも、必死に自分の思う国のあるべき姿を現実化しようとした氏の逝去に、衷心から哀悼の意を表したい。

 タイミング的な、そして被害者の社会的立場の上から、民主主義に対する挑戦であるかのように語られているこの暗殺事件だが、政治的な文脈での民主主義の問題はその本質の一部にすぎない。倫理としての民主主義、他者尊重というモラルの崩壊(と言うより、未成立という方が適切か)の問題の闇は深い。

 自分にとって「気に入らないやつ」には、自分の方も「気に入らないやつ」と思われているだろう。自分が生き延びるために、「相手より先に殺して、さらに他のやつに殺されないようにビクビクしながら生きる」のか、それとも「どちらも生き延びて、安心して暮らせる世の中にする」のか。答えはわかっているはずだ。

 だが、それでも間違った答えを選ぶ者がいる。今も、昔も、この国にも、どこの国にも。

部活動って…2022年07月10日 08:58

 最近、部活動に関するニュースがいろいろと目につく。

 スポーツ指導やスポーツ界、そしてその一部に組み込まれている運動部が、残念ながら暴力の温床と化しているのは今も昔も変わらない。暴力と脅迫が横行する社会で育った子どもは、部活動の社会では上位者に従順だが、その反面として他の社会集団においては特権意識のようなものを持ち、規範意識が著しく低いというのは、大学スポーツの問題として数年前から指摘されている。ボスには従順だが、外部には不遜というのでは、「人間」社会では不適応を起こしてもおかしくない。

 事実上プロスポーツへの就職活動となっている高校スポーツの全国大会を、テレビ報道で垂れ流し、感動ポルノまがいの取り上げ方で盛り上げているのも昔から変わらない。

 現実とはかけ離れた夢物語であるマンガやアニメのスポーツを本気にして現実の指導に組み込む、あるいはフィクションと現実を混同して特定のスポーツがブーム化する(そしてその後飽きられて閑散化する)のも昔から変わらない。血の汗流し、涙も拭かず、どんと行った男の末路がどうなったか(描かれてはいる)、ほとんどの人は知らない。

 こと運動部だけではない。吹奏楽、ダンス、書道と、文化部と言われる部門も同様。高専ではロボコン目当ての入学者が増えたものの、そういった生徒は基礎学習には興味がないため、指導に苦慮しているという話も聞いたことがある。

 もっと根本的なところを考えてはどうか。

 部活動は、しなくてはいけないのか?

 もちろん、しなくてはならないものではない。するのもしないのも自由だ。ということは、部活動に参加しようがすまいが、それによってその人の人生に不利益があってはならないということだ。

 部活動参加が就職に有利という慣習もいまだにあるらしい。部活動経験者を採用するのは問題ないが、部活動に参加していない者にも全く同じ就労の機会を与えなければならない。つまり、部活動参加者を優遇してはならないということになる。プロのスポーツやその他の集団が人材を欲する場合は、受益者負担として、自分でしっかり金と時間と人力をかけて育成すべきだ。身銭も切らず、他人に(あるいは暴力的社会構造による隷属者)に育成を丸投げ(最近はアウトソーシングとも言うらしい)して、美味しいところだけさらっていくのは社会通念上受け入れられない。部活動(特に運動部)経験者は忍耐力があると巷では言われているが、その実態が単なる「服従力」である危険性は高い。変革期社会では「服従」者はお荷物でしかない。

 今の実態を理解した上で、そんな部活動になど「参加しない」とはっきり判断できる人材のほうが、よほど知的だ。もちろん、ただのヘタレも部活動に参加しない層には存在するが、部活動参加「服従」者もまた同様に困りもの。部活動参加はその人材の能力とさほどの因果を持っていないと考えるべきだろう。

 それでも部活動を続けたいという風潮は根強い。その裏に「部活動ビジネス(全員が学校規定の体操服以外のユニフォームを着ないと、つまり改めて購入しないと競技団体に参加させない、ギャラ最小で視聴率の稼げるコンテンツが手に入るなど)」があるのを勘ぐってしまうのは私だけか。