「黒いオルフェ」を観る2022年08月09日 23:37

 「黒いオルフェ」を観る。1959年のフランス・ブラジル・イタリア合作映画。マルセル・カミュ監督作品。

 アントニオ・カルロス・ジョビンのあまりに有名なテーマソングでよく知られているが、なかなかご縁がなかった作品。ギリシャ神話「オルフェオとエウリディーチェ」の話を下敷きに(「古事記」だとイザナギの黄泉下りの話)したストーリー。

 冒頭、妙に怯える様子のヒロイン、ユリディス。そんな彼女が市電の運転手でギターとサンバの名手、オルフェと出会う。オルフェにはミラという彼女がおり、婚姻届を出しにいくのだが、独占欲と気位の高いミラにオルフェは少々うんざりしている様子。ユリディスとオルフェの出会いはカーニバルの前日。夜はカーニバルの練習となる。

 カーニバルのために貧しいオルフェオたちはなけなしの金をつぎ込む。すでに祭りの熱気で理性はかなり飛んでいる。ユリディスを怯えさせていた謎の男が現れ、ユリディスのいのちを狙う。オルフェはユリディスを助け、紳士的に一夜を過ごそうとする。しかし、宿命的に惹かれ合う二人は結局夜を共にすることになる。

 なんといっても圧巻なのはカーニバル。サンバのステップの凄さ、踊りの凄さに圧倒される。熱狂と混乱の後、カーニバルが終わった朝には、彼らには重く辛い現実が待ち構えている。

 オルフェも登場したときはただのチャラい男と言ったふうだが、質から受けだしたギターを引き始めると顔つきが変わり、サンバの衣装を身につけると冒頭とは別人のようだ。そんな彼がラスト、現実に帰るシーンはどこか寒々としている。まさに「祭りのあと」だ。

 ストーリーはなんといっても神話なので、深く突っ込むのは野暮というもの。ここではカーニバルの熱気に当てられるのがいいのではないか。

「ブータン 山の教室」を観る2022年08月03日 23:29

 「ブータン 山の教室」を観る。2019年のブータン映画。パオ・チョニン・ドルジ監督作品。

 ミュージシャンとしてオーストラリアに単身移住の夢を持ち、大学卒業後のお礼奉公としての5年間の教師生活には全く身が入らない、問題教師の主人公、ウゲン。あまりの不熱心さに、とうとうブータンの北の辺境、ルナナへの転勤を命じられる。

 このルナナ(実際に存在するらしい)が、なんとも凄い辺境。首都からバスで半日以上移動した上に、それから7日間歩いて移動しないとたどり着けない。ヘタレのウゲンはもうヘロヘロだ。そんなウゲンを村は総出で出迎える。電気も満足に供給されないこの辺境の村で、早速ウゲンは村長に、とてもこんなところではやっていけない。もともと教師なんてやめる気だったとボヤく。そんなウゲンを村長は叱るでもなく、仕方ないとウゲンの帰りの準備を始めてしまう。とはいえ、7日もラバと移動してきた直後のこと、ラバも人も休まなければ帰りの旅には出られない。

 翌日、学校(もちろん小学校だ)の委員長の少女、ペム・ザムが寝坊したウゲンを起こしにくる。とりあえず学校にいくウゲンだが、教室には黒板もない。しかし子どもたちの目はいきいきとして、意欲的だ。そんな姿にウゲンの心は動き始める。ウゲンはどうやら教師に向いていないどころか、とんでもなくいい教師の資質を持っていたらしい。村人も子どもたちも、ウゲンを受け入れ、愛し、慕うようになる。おそらくは彼の前任者よりも。

 村の大人も子供の教育に大きい期待を寄せている。村長は「先生を大事にしなさい。なぜなら先生は未来に触れることができる人だからだ」と村民に教えている。ウゲンはやがて、子どもたちに、そしてルナナの雄大な自然に心奪われていく。

 しかし、辺境の村は冬は雪で閉ざされ、外界と遮断される。冬が来る前にウゲンは村から帰るか、ひと冬村で過ごすかの選択を迫られる。そして、オーストラリアへの渡航ビザが降りたと連絡が届く…

 王道中の王道のようなストーリーだが、子どもたち、村人たち、そして自然の美しさがその王道をしっかり支えている。したり顔のスレた批評など、この作品の前では虚しい。ラスト、ウゲンの歌はなんとも気の抜けた「ビューティフル・サンデー」から、ルナナの民謡に切り替わる。その民謡がどのように周囲に伝わるか、そこはエンディングとなって提示されない。そういう終わり方もまた定番中の定番。基本に忠実な教科書的な映画ともいえるが、その定番が少しもイヤにならない。素朴な世界、素朴な心には、素朴で基本に忠実な、小細工のない作品がよく似合う。

 そしてなんといっても印象的なのが委員長のペム・ザム。子どもと動物には勝てないというのがドラマの常識だが、まさにそのとおり。これもまた王道中の王道。横綱相撲で寄り切ったような、清々しい、いい映画だ。こういう作品で頭の中をきちんとリセットしたいと、心からそう思える。

「反撥」を観る2022年08月01日 21:06

 「反撥」を観る。1965年のイギリス映画。

 監督はロマン・ポランスキー。主演はカトリーヌ・ドヌーブ。この組み合わせで不穏な映画でないと考えるほうが不自然。ドヌーブは当時まだ20台前半、とにかくきれいだが、その分どこかアヤしい。彼女が演じるキャロルは妙に潔癖症で、おまけにどちらかと言うとトロい。いつもぼおっとしていて、仕事も上の空。彼氏もいるようだが、どこかよそよそしい。キスされると彼氏を突き放してまっすぐ自宅の洗面台に駆け込んで唇を拭うほど。

 ここまで来ると、ただの潔癖症ではないことがわかる。性嫌悪だ。

 彼氏の悪友共も、現在からすればとんでもない女性蔑視のセクハラ発言を彼氏に投げかける。美人のキャロルを取り巻く性的社会環境の劣悪さも伝わってくる。彼氏が悪友にブチ切れるのも当然と言えば当然。それぐらい彼氏は真面目男だが、キャロルをきちんと受けとめることはできない。そこは残念ながら、やはり男性天国の社会の男である。

 キャロルが同居しているのは姉。二人暮らしだが、姉はしっかり所帯持ちの男を連れ込んでいる。安アパートなので、夜は当然…キャロルの嫌悪は高まるばかり。姉がなぜそんな相手と…と考えると、これも伏線かもしれないが。そんななか、姉と姉の相手がイタリア旅行に出ていく。キャロルは一人アパートで暮らすことになる。そして、キャロルは次第に壊れていく…

 ドヌーブは「昼顔」でも性的な要因で常軌を逸していく女性を演じているが、こちらはあの作品とは正反対の方向での壊れっぷりだ。当時の制作コードでぼかされているのだが、端々にキャロルの性倒錯の痕跡が見て取れる。

 ラストシーン、キャロルの子供の頃のブリュッセルでの家族写真。影がかかって全体は見えない。見えるのは子供時代の怒りの形相のキャロルと、その視線の先にある、影の間から見える、おそらく父親の顔。当時のコードからすればギリギリなのだろうが、明らかにキャロルがなぜこうなったかを暗示している。

 ポランスキーの悪名が頭をよぎる。

「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」を観る2022年07月26日 20:41

 「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」を観る。2019年のアメリカ・カナダ合作映画。

 ザ・バンドの結成と解散にいたるストーリーを描いた作品。バンドメンバーの仲違いによる決裂がザ・バンドを解散させた(後に再結成したときもしこりが残っている)わけだが、その当事者の一人であるロビー・ロバートソンの書いた本をもとに作られたドキュメンタリー映画。

 当然ながら、ロバートソンの見方がメインになっているので、確執の相手であるリヴォン・ヘルム(すでに故人)の見方はこの作品に反映されてはいない。そこが気に入らない向きもあるようだが、だからといってこの作品の価値が大きく減じられることはない。

 ボブ・ディランとの苦しかったツアーや、成功の陰でのトラブル、そして解散コンサート「ラスト・ワルツ」のそうそうたるメンバーの映像を観るだけでも価値はあるというもの。

 スコセッシが監修した「ラスト・ワルツ」も観たくなった。

「300」を観る2022年07月05日 20:26

 「300」を観る。2007年のアメリカ映画。ザック・スナイダー監督作品。

 フランク・ミラーのグラフィック・ノベル(これも古い、同じ史実を題材とした映画に触発されたという)「300」をもとにした、ペルシャ戦争の中でもスパルタ兵を特に有名にした玉砕戦、テルモピュライの戦いを映像化したもの。

 ケレン味たっぷりの映像、リアルと言うより、グラフィック・ノベルをそのまま実写化したような作品だ。その凝りっぷりがなかなかすごい。マッチョでストイックなスパルタの面々も、退廃的でパンキッシュなペルシャの面々も、動きや構図も、本気そのものである。これを観ると日本映画のマンガ実写化のレベルの低さが悲しくなる。芸能プロダクション主導のキャスティングなのか、金のかけっぷりなのか、はたまた制作側の原作に対するリスペクトや読みの浅さなのか…「シン・ゴジラ」や「シン・ウルトラマン」あたりはなんとか気を吐いているが、あれはどちらも最初から3次元である。

 ストイックな武人の世界は、どことなく侍をイメージする。日本の時代劇の侍はどことなく屈折した描写をされることも多いが、こちらのスパルタ人はまっすぐでわかりやすい。そこは紀元前のこと、まだ世界も若かったということか。

 史実の映像化なので、結末は当然わかっている。言ってしまえばネタバレなのだから、ファスト映画やネタバレ前提の観客にも受け入れやすいのではないか。鬱陶しい伏線もない。一直線に突っ走る清々しささえ感じる作品だ。