ブルッフのヴァイオリン協奏曲2015年07月04日 16:44

 マズア指揮・ゲヴァントハウス管弦楽団・ヴァイオリン独奏アッカルドで、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番、第2番とスコットランド幻想曲を聴く。

 録音は1977年、今はなきフィリップスレーベル。

 ヴァイオリン協奏曲第1番は、半音階を多用したかなりロマンティックな曲。叙情性豊かでメロディも親しみやすく、オーケストラも申し分ない。ヴァイオリンも悪くないが、時折かすれ気味の音が聞こえてくるのが惜しいか。ハイフェッツのような太い音ではなく、どちらかといえば細身のヴァイオリンだ。

 スコットランド幻想曲は、重厚なオケがいい。ドラマティックな演奏だが、ケレン味はない。正攻法で、ゆったりとした気分で聴くことができる。

 ヴァイオリン協奏曲第2番もやはり重厚。第1番のようなロマンティックな感じではなく、どっしり、ゆったり。ゲヴァントハウスの渋目の音がよく合っている。ヴァイオリンはやはり細身で、ややもするとオケとの色合いの違いが目立つこともあり、やはりかすれ気味の箇所もある。だからといって演奏に大きなマイナスがあるわけではない。

 至極まっとうな演奏で、全曲直球勝負。ゆったりした気分で、リラックスして聴くことができた。このレーベルは現在解散してしまっており、デッカレーベルに変更となった。その際、かなりの録音が廃盤となっている。随時再発売は行われているが、残念な限り。

発言ということ2015年07月18日 23:43

 かつて小林秀雄は、自分の評論が大学入試の出題文となっているので、試しに解いてみたところ、ひどい点しか取れなかったという。

 志賀直哉は、「暗夜行路」を読んだ人から、「素晴らしい恋愛小説です。」と言われ、面食らった表情で「恋愛小説と思って書いたことはなかったので、今度そのつもりで読みなおそう。」と言ったという。

 いずれも、自分が書いたテキストであっても、公刊された瞬間から、読者の側にその意味が委ねられ、筆者本人から独立してしまうことをよく表している。

 テキストの意味が読者の読解に依存する以上、書き手はどのような読者に、どのようなメディアでテキストを発信するかに細心の注意を払わなければならない。発信したテキストはいくら発信者が「そんなつもりではなかった」と言ったところで無意味だ。

 また、未熟な思想のまま発信したテキストも、文字として流布する瞬間に、固定化されてしまう。後に自分のテキスト撤回しようにも、公刊したメディアの伝播力の強さによっては、撤回不可能となる。メディアの伝播力として最強なのは言うまでもなくネット環境である。だからこそ、ネット上での放言や他愛のないおしゃべりは、最悪の場合、自分の社会的存立を犯すことにもなりかねない。

 テキストの解釈はひとえに読者に委ねられる。したがって、読者が発信者を特定できる場合、発信者の社会的地位や立場が読者の解釈に影響を与えるのも当然のことだ。また、読者の思想の到達度によって、未熟な解釈が行われる危険性もあり、その場合、一顧にすら値しない反論に晒されることもありうる。発信者の社会的地位や発信するメディアの伝播力が高ければ高いほど、その危険性は増大する。そして当然、発信者はそのことを考慮してテキスト、つまり情報を発信する必要がある。

 ネットはまだ未成熟なメディアだが、匿名性によってその異常なほど強力な伝播力に伴う発信者の発信責任を猶予することができる。だからといって、無責任に情報を発信してよいとは言えない。うかつに発信して炎上モードになることはよく知られているし、それは発信者が自分の情報をネットという場に適切に発信していなかったことに対するペナルティであり、発信者が真摯に受け止めるべきことである。

 以上のように、情報の意味は発信した瞬間から、発信者の意図を離れ、受容者に依存する。世阿弥が「風姿花伝」で指摘したのも同じだ。だからこそ世阿弥は「見巧者」を重視した。役者が観客を常に意識しなければならないというのも同様。観客が変われば、それに応じて芸を披露するのは役者の努め。情報もまた同じ。飲み屋の放談や冗談も、公式の場での講演も、同じレベル、同じ内容というのは、ブレないことを主張したいのだろうが、あまりにナイーブに過ぎる。

 自分の主張が受容者に受け入れられなかった場合、受容者に対して恨み言を言いたくなるのは人情だ。だが、それを発信すべきかどうかはまた別問題。本当に持論を主張すべきだと思えば、ハンナ・アーレントのように四面楚歌でも主張するというのもひとつ。尻をまくって退場するのもまたひとつの選択だ。しかし、その対処そのものも、また情報であり、それを読み解く受容者もまた存在する。そして受容者は情報がある限り、発信者を一方的に解放したりはしない。少なくともおとなしく解放してもらえると考えるのもまたナイーブに過ぎる。

 力のあるメディアに、力のある立場の者が情報を発信すれば、それに関しては全人格を持って責任を持つこと、一歩間違えば社会存在の存立そのものも危機に晒されることを自覚する必要がある。「ノブレス・オブリージュ」などというと難しく感じるが、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということだ。何のことはない。「スパイダーマン」で主人公が育ての親に諭されるセリフそのものである。実に単純なことだ。これほど単純なことすら自覚できないナイーブな人間でさえ、今はネットという暴力的なメディアを使うことができる。

 自己の言動に責任を持つことが、従来とは変質し、より重いものとなっている。自戒も込めて、肝に銘じたい。この自戒は永遠に「ゼロ」にしてはならないだろう。

「ロング・グッド・バイ」2015年07月26日 06:11

 世評の高い村上春樹訳の「ロング・グッド・バイ」。刊行直後に読んだのだが、その時の雑感を。

 一番引っかかったのは「はんちく」。ほかにも「棒だら野郎」など、いくつかの侮蔑語が訳出されているが、その多くが私の住む地域の言語環境では全く使われていない語である。

 前掲の「はんちく」は、調べてみると東京方言とされている文献があった。なるほど、東京の、それも江戸語あたりが身近な読者には非常にマッチした悪態なのだろう。

 だが、東京方言が全国で通用するわけではない。いかに「東京」とは言え、「方言」なのだから。

 だから、残念ながら氏の訳に現れる侮蔑語からにじみ出る皮膚感覚や嫌悪感、侮蔑感は全く私には伝わらない。文脈から侮蔑語であることはわかるのだが、下手をすると原書の英単語のほうがより伝わってくるかもしれない。

 ほかにも旧清水訳と比べれば、妙に直訳調で会話のテンポがくどい(このゆるさは村上文学と共通するか?)など、気になるところは多いが、氏の言語感覚が東京を中心としたローカル性を強く持っていることが、今回私の違和感を強くしていることは確かだ。

 とは言え、言語圏限定「ロング・グッドバイ」バージョンというわけにもいくまい。所詮アメリカ文学。どこかアウェイ感を残しているのも「翻訳」なのかもしれないが。