チャトウィン「パタゴニア」、フエンテス「老いぼれグリンゴ」読了2015年09月14日 22:24

 チャトウィンの「パタゴニア」、フエンテスの「老いぼれグリンゴ」を読了。

 「パタゴニア」は南米南端の地、パタゴニアでの旅を記した紀行文。しかし単なる旅の記録ではなく、旅に付随したさまざまな過去の物語や、さまざまなエピソードが虚実入り交じって次々と展開されていく。

 パタゴニアの地にあの映画「明日に向って撃て!」のブッチとサンダンスが逃げ延びていた話など、映画を知っていればいっそう楽しめる。

 「老いぼれグリンゴ」は、晩年メキシコで消息を絶った、日本では「悪魔の辞典」の作者として有名なアンブローズ・ビアスの最期を描いた作品。メキシコに死にに来た老いぼれアメリカ人(「グリンゴ」は、メキシコ人がアメリカ人を蔑むときの呼び方)。メキシコ革命軍に身を投じ、死にたいと言いながら、その勇猛な戦いぶりで先頭を生き延び、英雄として遇されてしまう。そこにアメリカから、家庭教師としてメキシコに呼ばれた女性が現れて…

 視点の時間軸が入れ替わったり、物語が錯綜するなど、ストーリー自体はシンプルだが、幻想的な仕上がりとイメージの豊かさが魅力。米墨国境の川(リオ・ブラボー=リオ・グランデ)を「傷跡」と呼び、そこでのラストシーンは特に印象的だった。

 1989年にグレゴリー・ペック、ジェーン・フォンダ競演で映画化されたが、評判は芳しくなく、私も未見。映画化に向いていそうで、そうカンタンにはいかないような小説だと思ったが、やはりその予想はあたっていたようだ。

「大きな物語」の喪失2015年09月23日 21:57

 毎日新聞の映画評で、ある作品が評者の予想に反して、興行成績が振るわなかった(と言っても、公開第一週で3位ではあったが)ことに対して、観客側の能力を疑うような内容があった。評者の憤慨ぶりが目に浮かぶようだ。

 私も評者の肩を持ちたい気分がないわけではないが、評者が時折見せる「保守的」とも言える言説には少々違和感も感じていた。

 評者もおそらく私と同様「大きな物語」が機能していた時代に知的成長期を送っていたのだろう。「大きな物語」は、曲解を恐れずに言えば、「冷戦構造」が成立していた時代までの世界観ということでいいだろう。

 「冷戦」がソ連の崩壊によって消滅し、世界が全面核戦争突入して人類が絶滅するという危惧が、世間からリアリティを失ってしまっているのが「大きな物語」喪失後、つまり現在である。「宇宙戦艦ヤマト」が「大きな物語」の下で、つまり「放射能汚染による人類絶滅」がリアリティを持っていた時代に生み出され、作品の通奏低音として、「死」と「絶滅」があったのに対し、冷戦後に生み出された、リメイク版の「宇宙戦艦ヤマト2199」では、限りなく「死」の気配が希薄(実写版も同様)であったのも、「大きな物語」が失われたことによる影響と考えられるだろう。そう言えば、オリジナルを耳コピーしてスコアを再生したというBGMにも、オリジナルにあった「重さ」「冥(くら)さ」は希薄に感じる。

 現在、人々は「大きな物語」を受容する素地をもはや失っているのではないだろうか。冷戦が集結してすでに20年以上が経過した今、「大きな物語」は前時代的・保守的な「古い」価値観であり、「冷戦」が悪の表象であるならば、否定されるべき文脈に分類されているはずだ。そうなるのも当然だろう。

 大きなスパンで、大きなスケールで、未知の世界を構築し、その中で試行錯誤しながら世界を記述する、そんな作品が求められなくなってすでに久しい。いま求められているのは、刹那的で享楽的、浅薄でわかりやすい、持続性の低い作品群だ。

 修理という概念を最初から放棄したiPodやiPad、iPhoneに群がる人々。新しいものを生み出すより、旧作のリメイクに奔走し、忠実なリメイクしか認めようとしない人々。参加と創造より享受と消費。「もったいない」も「mottai-nai」と異化されて、すでにどこかへ消え去ってしまった。

 しかし、人は、簡単に一枚岩になってしまうほど画一的ではない。そんな時流に乗れない、違和感を感じる人もまた存在する。そしてまた「大きな物語」を希求する流れは蘇り、また退潮して、波をくり返すのだろう。

 「滄浪の水清まば、以つて吾が纓(えい)を濯ふべし。滄浪の水濁らば、以つて吾が足を濯ふべし」。古い言葉だが、これでいいのではないだろうか。

「GODZILLA ゴジラ」鑑賞2015年09月27日 08:14

 「GODZILLA ゴジラ」を鑑賞。
 昨年、なんだかんだで完全に見逃していたので、やっと観たといったところ。

 福島の原発事故とその後をイメージさせるような前半、「クローバーフィールド/HAKAISHA」を彷彿とするMUTO、海上にのぞくゴジラの背ビレは「ジョーズ」か、それとも前回のアメリカ版Godzillaのイメージか。

 ストーリーは家族の崩壊と再生を軸に動く。本家東宝でも「ゴジラVSモスラ」や「ゴジラ✕メカゴジラ」あたりで匂わせていたストーリーで、ある意味盤石な設定とも言える。

 ゴジラの立ち位置はかなり変化。「核の脅威」の具現というより、むしろ平成ガメラの立ち位置に非常に近い。途中数回「寝る」ところもだ。単なるゴジラへのリスペクトというより、日本の、特に平成以降の怪獣映画の流れに合わせているのではないかと思える。化石化した骨格とMUTOの卵のシーンなど、「ガメラ3/邪神覚醒」のイメージも感じる。

 人間側のキャラクターを活かしきれていないところは残念。渡辺謙の芹沢博士は、狂言回し的で深みが不足。提督との絡みももう少しあると深みがましただろうが、そこまでやると3時間超の大作となるかも。

 日本で、特撮物のこの国での宿命の通り、子供だましに堕して崩壊したゴジラを再び引っ張りだした(もっとも庵野氏の存在を考え、彼のエヴァ後の実写作品の実績を考えると、少々気が重いが)功績は大と言えるし、アメリカ版前作に比べれば(しっかりリスペクトはしていたが)、はるかにゴジラらしい作品ではある。しかし、やはり本家ゴジラではなく、アメリカナイズされた「Godzilla」には違いない。それは明らかに「核」「放射能汚染」という悲劇に生々しく直面した日本という国の文化底流とアメリカの文化底流の温度差に起因しているように感じる。

 その意味でやはりゴジラは「核」の脅威を引きずり続ける存在なのだろう。そして我々は子供だましに堕したゴジラに失望の嘆息を漏らしながら、あの憎悪と恐怖に満ちたゴジラを希求する。民衆に迎合せず、民衆の怒りと悲しみを背負い、民衆に大きな犠牲を強いながら、民衆を食い物にする存在を破壊し尽くすゴジラを。

 日本版新ゴジラに破壊して欲しいと民衆が願うものはいくつもある。それに制作側が果たして気づいているのかどうか。民衆の審判はその点にかかっている。初代ゴジラは国会議事堂を破壊した時、観客から喝采を浴びたのだ。そして、その代償の焼け野原は広島の惨状を強くイメージさせ、その結果ゴジラは葬り去らねばならない存在となり、核開発と軍拡競争という現実が、第二、第三のゴジラを産んだ。新ゴジラは現実とどこまでがっぷり四つに組めるのだろう。

石ノ森作品の通奏低音〜島村ジョーの自称変化についての一考察〜2015年09月28日 23:54

サイボーグ009において、島村ジョーの自称の変化については、ほとんどの論考がそれを無視しているように思える。
 島村ジョーの登場は久里浜少年鑑別所の脱走シーンである。これ以前に島村ジョーは登場していないし、この作品が初めて世に出たのは、現在の単行本で冒頭に置かれている001から008までの拉致・改造シーンではなく、この脱走シーンであることはよく知られている。それは絵柄の違いからも歴然としている。
 最初に登場した島村ジョーの自称は「おれ」である。これは改造手術のための麻酔を受ける直前まで使われている。
 ところが、改造手術が終わり、島村ジョーがサイボーグ009として生まれ変わった瞬間から、彼の自称は「ぼく」(または肩下華のボク)に変わる。001に覚醒させられ、巨大ロボットに襲われた直後、天井に張り付いて攻撃を逃れた瞬間から自称が変化する。これはおそらく連載第2回であるから、単に自称が連載の変わり目で変わったと考えることも不可能ではないが、発表しが『週刊少年キング』という週刊誌であることからして、連載原稿作成の感覚がかなり短いことを考えると、やはり意図的な変更であると見るのが妥当だろう。
 少年まんがとして「おれ」という自称が教育的に問題があるという判断で変更された可能性もなしとはしないし、当時の少年まんがの主人公の自称をチェックして、そのような配慮があったのかどうかを確認することは現時点ではできていない。しかし後の少年まんがの男性主人公の自称として「おれ」はさほど珍しくないことから考えて、そのような配慮から「ぼく」へと自称が変化したとは考えにくい。ここは島村ジョーが改造手術を受けた結果、キャラクター造形上の人格が変化したと考えるべきだろう。もちろん生身のころの自称から考えて、紳士的ないしは高次の精神活動が開始されていると判断できる。
 そして、彼の自称は後のシリーズ、「アステカ篇」において、テラクトラマカスキの影響下に置かれ、精神的退行という状況下で感情暴走をした時でさえ変化することがない。
 以上のことから考えて、島村ジョーは改造手術を受けることで、人格的にも大きな成長をし、それは終生持続したと考えられる。冒頭部分に暗示された、仲間を気遣う優しさ、そして麻酔直前に強く抗う姿に象徴される自由への渇望は、改造後の島村ジョーにとってより全面に押し出されることとなる。もちろんそのバックに、改造されたことで得た力と、仲間の存在によって保たれる孤独からの開放、そして母性としてのフランソワーズの存在があることは言うまでもない。
 ここで、改造手術を一種のメタファーとして展開してみると、石ノ森作品に通底する要素が見いだせる。サイボーグとなることで、人間から排除される結果となった島村ジョーは、さまざまなエピソードの中で人間との断絶と直面することになる。最も初期のエピソードとしては「オーロラ作戦」(秋田書店版では「新ナチス」)がある。このストーリーのラストで、妻を新兵器に酔って失った男とその娘が再開する際、親子は「機械」を憎んでいたと語り、「半機械人間」であるジョーたちとの断絶は決定的なものとなる。この場合「機械」は殺戮をもたらす絶対悪のメタファーであり、それを「黒い幽霊団」によって体に移植されたサイボーグであるジョーは「絶対悪」によって汚された、忌むべき存在として指弾されてしまう。しかし、「機械」=「悪」というあまりに単純な善悪二元論は、「機械」=「悪」を体内に埋め込まれながら、その「悪」と決別し、敵対しようとするジョーたちにとって、あまりに皮相的認識ではないか。ここにサイボーグとして覚醒した島村ジョーと、生身の人間との大きな断絶の実相があると考えられる。改造されたジョーにとって、生身の頃に囚われていた皮相な二元論的世界観は相対化されてしまっていると考えてもおかしくはないだろう。
 この構図は作品が進行するに従って強化されていく。「ローレライの歌」のラストにおいてジョーが語った言葉が象徴的だ。「ぼくは……はんぶん機械かもしれない!」「でも……だからこそふつうの人間よりは正しい答えをだせるのだと信じている!」しかしこの言葉は復讐に狂ったローレライ母娘には通じることはなかった。また、ジョー自身もその優等生的でイノセンスな思考がローレライ母娘には通じなかったことに、強い無力感を感じている。ジョーの言葉は、心までも人ならぬものとなってしまった自分の、虚しい正当化のようにも響く。生身の人間の妄執や憎悪には、ジョーの理性は通用しない。そしてそれこそが「黒い幽霊団」の本質であるとすれば、彼らの戦いは永遠に続かざるを得ない。その「黒い幽霊団」は、人類を武力の独占によって経済的、軍事的に支配しようとしている。恐怖支配による自由の弾圧は、石ノ森作品の「悪」の本質と言える。
 この構図は後に「人造人間キカイダー」によって変奏される。この作品のラスト、ジローは不完全な良心回路「ジェミニィ」にプラスして、服従回路「イエッサー」を取り付けられ、それによって「人間と同じ」になったと語る。この時ジローはそれまでの「ぼく」という自称を「おれ」と変える。ここは明らかにジローの人格変化を表現している部分だ。「人造人間キカイダー The Animation」とその続編「キカイダー01 The Animation」では、この自称変化が表現されていなかった。あれほど原作をみごとにアレンジした作品の、これは痛恨の失策だと思う。服従回路「イエッサー」を悪の表象としていることから、石ノ森の悪に対する概念の一端が伺える。自由意志と自己判断を放棄し、他者の権威や判断に身を委ね、自己の苦悩や判断を放棄するのが「服従」であり、それは個人の自由の放棄である。石ノ森の語る「悪」は決して単純な二元論ではなく、人間の自由を奪う存在である。この点を把握していないままで論者が石ノ森を論じるのは、あまりに浅薄だと言わざるを得ない。そして、「人間と同じ」になったジローが幸せになれないことは作品のラストが暗示している。永遠に自由を守るために戦い続ける、これこそが自由の代償である。「善」も「悪」も地獄道。この荒涼とした世界観が石ノ森作品の底辺に流れる通奏低音である。
 キカイダーはイナズマンという超人によって服従回路「イエッサー」を焼き切られるが、それは「人造人間キカイダー」という作品世界から逸脱した世界であり、その後ジローは姿をあらわすことがない。この時点でジローは「永遠の戦い」からリタイアしてしまった。それは「人類の自由のために闘う」はずだったTV版の仮面ライダーがいつの間にか「正義のために闘う」存在と化して、原作から逸脱していきつつ生き続ける(そして「生身の人間」のものとなった)こととの照応という点で興味深い(もっとも「仮面ライダーウィザード」の最終回で、この部分に対して痛烈な批判が行われているが)。
 石ノ森作品は冷戦時代の世界観に基づいていて、すでに時代的意味は失われているという論も少なからず目にするが、明らかにそれは皮相な見方に過ぎない。石ノ森は冷戦時代という「大きな物語」を、意識の有無にかかわらずメタファーとしてとらえ、その視点は人間存在そのものに向けられていたと考えられる。人間にとって闘争の意味はなにか、何が人間を闘争に向かわせるのか、何が人間を闘争から開放するのか、それが彼の終生のテーマであった。その意味で石ノ森は当初から「人間の物語」を希求し続けたのだろう。多くのまだまだ未熟でナイーブなマンガジャーナリズムやサブカルチャー論証のなかで、石ノ森作品は未消化のまま放置されていると思う。まさに「生身の人間」の視点でしか評されていない氏の作品を、そろそろ「異形の視点」で見直す時期が来てもいいのではないだろうか。