「大きな物語」の喪失2015年09月23日 21:57

 毎日新聞の映画評で、ある作品が評者の予想に反して、興行成績が振るわなかった(と言っても、公開第一週で3位ではあったが)ことに対して、観客側の能力を疑うような内容があった。評者の憤慨ぶりが目に浮かぶようだ。

 私も評者の肩を持ちたい気分がないわけではないが、評者が時折見せる「保守的」とも言える言説には少々違和感も感じていた。

 評者もおそらく私と同様「大きな物語」が機能していた時代に知的成長期を送っていたのだろう。「大きな物語」は、曲解を恐れずに言えば、「冷戦構造」が成立していた時代までの世界観ということでいいだろう。

 「冷戦」がソ連の崩壊によって消滅し、世界が全面核戦争突入して人類が絶滅するという危惧が、世間からリアリティを失ってしまっているのが「大きな物語」喪失後、つまり現在である。「宇宙戦艦ヤマト」が「大きな物語」の下で、つまり「放射能汚染による人類絶滅」がリアリティを持っていた時代に生み出され、作品の通奏低音として、「死」と「絶滅」があったのに対し、冷戦後に生み出された、リメイク版の「宇宙戦艦ヤマト2199」では、限りなく「死」の気配が希薄(実写版も同様)であったのも、「大きな物語」が失われたことによる影響と考えられるだろう。そう言えば、オリジナルを耳コピーしてスコアを再生したというBGMにも、オリジナルにあった「重さ」「冥(くら)さ」は希薄に感じる。

 現在、人々は「大きな物語」を受容する素地をもはや失っているのではないだろうか。冷戦が集結してすでに20年以上が経過した今、「大きな物語」は前時代的・保守的な「古い」価値観であり、「冷戦」が悪の表象であるならば、否定されるべき文脈に分類されているはずだ。そうなるのも当然だろう。

 大きなスパンで、大きなスケールで、未知の世界を構築し、その中で試行錯誤しながら世界を記述する、そんな作品が求められなくなってすでに久しい。いま求められているのは、刹那的で享楽的、浅薄でわかりやすい、持続性の低い作品群だ。

 修理という概念を最初から放棄したiPodやiPad、iPhoneに群がる人々。新しいものを生み出すより、旧作のリメイクに奔走し、忠実なリメイクしか認めようとしない人々。参加と創造より享受と消費。「もったいない」も「mottai-nai」と異化されて、すでにどこかへ消え去ってしまった。

 しかし、人は、簡単に一枚岩になってしまうほど画一的ではない。そんな時流に乗れない、違和感を感じる人もまた存在する。そしてまた「大きな物語」を希求する流れは蘇り、また退潮して、波をくり返すのだろう。

 「滄浪の水清まば、以つて吾が纓(えい)を濯ふべし。滄浪の水濁らば、以つて吾が足を濯ふべし」。古い言葉だが、これでいいのではないだろうか。