E-Sports2018年02月24日 22:56

 E-Sports、つまりTVゲームも、スポーツの一種として認知、発展させていこうという動きがある。これに対して、「あんなもの、スポーツとして認めない」という言説もある。

 なにを勘違いしているのだろうか。従来のスポーツも、E-Sportsも、人間が生きものとして生きていくうえで必要なものでは決してない。あれば生活にゆとりが生まれ、豊かになるだけのものである。要するに「遊び」こそが本質だ。

 「遊び」なのだから、ど根性だの所属集団のためだの、そんなおためごかしを並べ立てるほうが滑稽極まりない。麻雀も、パチンコも、将棋も、後も、野球も、サッカーも、スーパーマリオも、所詮「遊び」というカテゴリーに含まれる同類にすぎない。

 そんな「遊び」を飯の種にしようというのがプロである。そもそも遊んで飯を食おうというのだから、そんじょそこらの努力で食わせてもらえるはずもない。遊び人が遊び人として生きていくのは、ある意味社会からはみ出して生きるということだ。厳しいのは当たり前だし、だからといって他人に努力を賞賛してもらおうなどと当て込むのは、これまた滑稽だ。

 「遊び」にのめり込み、その「技」に賞賛を送る。見る側もする側も「遊び」に熱中する。だからこそ「豊か」なのだ。それに現世的な利益や有用性を持ち込むなど、野暮の極み、愚の骨頂だ。

 そんなことも忘れ果て、従来スポーツに従事することが特権階級としてのステータスであるかのごとく勘違いしている連中のなんと多いことか。また、そんなバカバカしい勘違いを助長するような「体育会系」と呼ばれる集団の実に幼稚な慣れ合い互恵行動にも呆れ果てる。

 胸を張って「遊び」ということすらできない、中途半端な遊び人が、屁理屈をこねて「遊び」を遊び以外のものにすり替えて、自分の権益にしがみついている。その延長線上に理不尽な暴力支配や、無能な年長者に若年者を服従させる誤った長幼の序の強制など、スポーツ界や教育会で跡を絶たない暴力と愚行の連鎖も発生している。E-Sportsという概念は、そのバカバカしさを痛烈に暴きだすものとなったのだ。

 「遊び」がなぜ悪い。人が人として豊かに生きるには必要なものではないか。「遊び」を仕事にした瞬間、「遊び」はその輝きを失い、地に落ちる。だが、「遊び」は、生きることに専念しなくてはならなくなったとき、真っ先に切り捨てられるもの、優先順位が最下位のものでもある。いつ失われても文句のいいようがないもの。その謙虚さもまた絶対に必要だ。心配しなくても、「遊び」は滅びることはない。どんなに苦しい時でも、人は「遊び」を忘れない。それを信じ、謙虚に実態を見つめ、幻想を捨てて、スポーツの本質は「遊び」だということを肝に銘じていくべきだ。

 E-Sports、大いに結構。楽しく遊び、遊びの妙技を楽しませていただきたい。日本には「遊び」にのめり込むいい言葉もあるではないか。「かぶく」という。する側も見る側も、ひととき「かぶき」を楽しみたいのだ。

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