「映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ 拉麺大乱」を観る2018年04月29日 21:51

 「映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ 拉麺大乱」を観る。

 もともと毒のある風刺が信条の作品だが、劇場版はそれに磨きがかかるのが通例。今回もその点はきちんと踏襲されているのはさすが。

 今回の悪役は「右肩上がり」の収益のためには手段を選ばない拉麺フランチャイズの経営者。このフランチャイズの拉麺がクセモノで、食べるとやみつきになるかわり、食べたものの人格を変え、イライラと凶暴性を高めてしまうというもの。資本主義の暴走と人間疎外の結果、人間性が放棄されてしまうのは、チャップリンの「モダンタイムス」がすでに指摘したところだが、ついに「クレヨンしんちゃん」にまで揶揄されることとなった。

 それに対抗するのが、「やわらかな心」を求める「ぷにぷに拳」と称するカンフーの流派。名前からして脱力系で、しんのすけはまさにこの拳法にとって天才的存在。他の登場人物が努力して手に入れる奥義も、しんのすけにとっては日常の行動そのもの。しんのすけ自身はなにもこだわりがなく、自然に行動しているのだが、奥義を求めようとする周囲は、自分としんのすけを比較して、亀裂が入ってしまう。人と競い、劣等感を持ってしまうのは競争社会の弊害そのものだ。

 最終的に奥義を手に入れる権利を得たのはしんのすけとヒロインの二人。だが、奥義を手に入れることに強い意欲と目的を持つヒロインの姿がしんのすけの幼いがゆえのとらわれないスタンスとのコントラストを強めていく。

 当初の悪役は成敗されるが、ストーリーはそこで終わらない。悪役を倒したのは力の行使によってだが、その代償は大きいものだった。

 武力は問題を本質的に解決することができない。武力は本質的に平和な日常を生み出すことはない。そして、他者と協働すること、他者に寛容であること(しんのすけは天然ボケだが、その結果他者には非常に寛容なのは基本設定)が、平和な日常には不可欠だと、静かにこの作品は訴える。声高ではないので、人によってはこのラストが冗長に感じるかもしれない。しかし、力による支配は恐怖しか生まず、誰もが触れることのできる歌や踊りが世界を平和にするのは、ヒトラーやナポレオンにはできなかったが、ベートーヴェンやピカチュウには世界征服が可能だったことを考えれば、鋭いポイントだといえる。

 新自由主義を発動しなければならなくなるほど、貧しい社会となってしまったことを、痛みとともに気付かされた我々が、それを克服するには、日々の地道な積み重ねが必要で、その結果、寛容さという本来我々が持っている豊かさを取り戻すことができるのではないか。この作品は「モダンタイムス」と重なるテーマに挑んでいるのではないだろうか。

 チャップリンの天才に対して成功しているかどうかを問うのは酷だろう。生煮え、消化不良な部分も多い。それでも、心意気は見事。毒にも薬にもならない「キラキラ映画」で金儲けに血道を上げている映画制作界で、これほどの気を吐けるのは立派だ。

 しんのすけは、「ぷにぷに拳」の天才でありながら、結局ある意味では「ぷにぷに拳」を継承せず、新たなスタンスに立つ。こどもは新しい世界を生んでいくもの、過去にとらわれず、新しい価値を生み出すもの、過去の軛にとらわれず、自分に正直に世界を見るもの。これも「クレヨンしんちゃん」映画の基本スタンス。そして、出番が少なかったとは言え、そのスタンスがしんのすけの両親から伝承されていることも光る。主人公たちが5歳児であることの、なんと清々しいことか。

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