raspberry pi3起動1 ― 2018年07月26日 02:15
買ったまま放置していたraspberry pi3を起動させた。
今回はraspbianをインストールし、普通のPC的な運用を目指した。用意したのはもちろんraspeberry pi3、それにQUIMAT製の3.5inchLCDディスプレイの保護ケースキット付き。そして手頃なマイクロSDカード。32Gを選んだが、16Gで十分らしい。その後raspberry pi用のヒートシンク3点セットも追加し、装着。表面のチップ(黒く四角い部品)のサイズに合うように二つのシンクを、シンクにすでに貼りつけてある両面テープで貼りつけ、裏面のチップ(これも黒い四角)には銅板を表面同様に貼り付ける。
PCからraspbianのサイトにアクセス(ググればすぐわかる)し、Raspbian Stretch with desktopのDownload ZIPを選択し、ダウンロード。大きいので時間がかかる。並行してEtcherをダウンロードする。Etcherはraspbianのサイトの上部にあるinstallation guideのリンクからWriting an image to the SD cardの記載の部分にあるDownload Etcher and install itのEtcherのリンクをたどれば見つかるので、自分のOSにあったバージョン(win、mac、linux、どれでもOK)をダウンロードし、インストールしておく。
raspbianがダウンロードできたら、SDカードをPCに噛ませて、Etcherを起動。最初に右上の歯車アイコンで設定画面を起こし、Auto-unmmount on successのチェックを外す。便利な機能だが、今回は下ごしらえのために遠慮いただく。終わったら右上のBackで最初の画面へ。一番左のアイコンでダウンロードしたraspbianのZIPファイルを選択。展開する必要はない。真ん中のアイコンでSDカードを選択、すんだら右のアイコンでFlash!。後は待つだけ。自動でファイルを展開し、bootimgとしてSDカードに書き込み、ファイルのエラーチェックまでしてくれる。いたれりつくせり。
出来上がったSDカードにアクセスし、bootのフォルダに入る。そこにsshと名前をつけた空ファイルを作成する。winの場合は勝手に.txtなどと拡張子をつけてくれるが、これはだめ。ただのsshファイルにしなくてはいけない。この作業をしないと、リモート端末から操作できない。
ここまで来たら物理的な準備を(並行してもかまわないが)。ディスプレイの保護ケースに、ヒートシンクをつけたraspberry pi3を取り付ける。四角い小さな穴のあるパーツを取り出し、切り欠きのある短辺を右側にして、小さなネジ穴に、細くて長いネジを四本、下から差し込む。透明なスペーサーをネジの上から落とし込み、raspberry pi3を、切り欠きのある側にSDカードスロットが来るようにして、ネジ穴にネジを通して落としこむ。次にケースの細長いパーツを、ネジを通したパーツの細い長方形の二つの切り欠きに突起を差し込む。raspberry pi3のHDMIとAVジャックが穴から覗く向きになるよう、表裏に注意。その後付属ナットでネジ止め。終わったらディスプレイをraspberry piの40ピンにきちんと差し込む。HDMI接続基盤でディスプレイとraspberry piを繋いだら、最後の大きな四角穴のあるパーツと、長く白いスペーサ、短く太めのネジを用意。まず土台の丸い四隅の突起の穴に下からネジをさし、スペーサーで取り付け。その後大きな穴の空いたパーツの小さな長方形の穴に、HDMI穴のあるパーツの突起を差しこむようにして取り付け。向きがあるが、きちんと取り付けられる方が正解。スペーサーにネジ四本でこのパーツをネジ止めしたら完成。設計図がないが、向きを間違えるとうまく組めないので、プラモデル感覚で作るとよい。
これで筐体と起動準備は完了。いよいよ火入れ(次回のお楽しみに)。
今回はraspbianをインストールし、普通のPC的な運用を目指した。用意したのはもちろんraspeberry pi3、それにQUIMAT製の3.5inchLCDディスプレイの保護ケースキット付き。そして手頃なマイクロSDカード。32Gを選んだが、16Gで十分らしい。その後raspberry pi用のヒートシンク3点セットも追加し、装着。表面のチップ(黒く四角い部品)のサイズに合うように二つのシンクを、シンクにすでに貼りつけてある両面テープで貼りつけ、裏面のチップ(これも黒い四角)には銅板を表面同様に貼り付ける。
PCからraspbianのサイトにアクセス(ググればすぐわかる)し、Raspbian Stretch with desktopのDownload ZIPを選択し、ダウンロード。大きいので時間がかかる。並行してEtcherをダウンロードする。Etcherはraspbianのサイトの上部にあるinstallation guideのリンクからWriting an image to the SD cardの記載の部分にあるDownload Etcher and install itのEtcherのリンクをたどれば見つかるので、自分のOSにあったバージョン(win、mac、linux、どれでもOK)をダウンロードし、インストールしておく。
raspbianがダウンロードできたら、SDカードをPCに噛ませて、Etcherを起動。最初に右上の歯車アイコンで設定画面を起こし、Auto-unmmount on successのチェックを外す。便利な機能だが、今回は下ごしらえのために遠慮いただく。終わったら右上のBackで最初の画面へ。一番左のアイコンでダウンロードしたraspbianのZIPファイルを選択。展開する必要はない。真ん中のアイコンでSDカードを選択、すんだら右のアイコンでFlash!。後は待つだけ。自動でファイルを展開し、bootimgとしてSDカードに書き込み、ファイルのエラーチェックまでしてくれる。いたれりつくせり。
出来上がったSDカードにアクセスし、bootのフォルダに入る。そこにsshと名前をつけた空ファイルを作成する。winの場合は勝手に.txtなどと拡張子をつけてくれるが、これはだめ。ただのsshファイルにしなくてはいけない。この作業をしないと、リモート端末から操作できない。
ここまで来たら物理的な準備を(並行してもかまわないが)。ディスプレイの保護ケースに、ヒートシンクをつけたraspberry pi3を取り付ける。四角い小さな穴のあるパーツを取り出し、切り欠きのある短辺を右側にして、小さなネジ穴に、細くて長いネジを四本、下から差し込む。透明なスペーサーをネジの上から落とし込み、raspberry pi3を、切り欠きのある側にSDカードスロットが来るようにして、ネジ穴にネジを通して落としこむ。次にケースの細長いパーツを、ネジを通したパーツの細い長方形の二つの切り欠きに突起を差し込む。raspberry pi3のHDMIとAVジャックが穴から覗く向きになるよう、表裏に注意。その後付属ナットでネジ止め。終わったらディスプレイをraspberry piの40ピンにきちんと差し込む。HDMI接続基盤でディスプレイとraspberry piを繋いだら、最後の大きな四角穴のあるパーツと、長く白いスペーサ、短く太めのネジを用意。まず土台の丸い四隅の突起の穴に下からネジをさし、スペーサーで取り付け。その後大きな穴の空いたパーツの小さな長方形の穴に、HDMI穴のあるパーツの突起を差しこむようにして取り付け。向きがあるが、きちんと取り付けられる方が正解。スペーサーにネジ四本でこのパーツをネジ止めしたら完成。設計図がないが、向きを間違えるとうまく組めないので、プラモデル感覚で作るとよい。
これで筐体と起動準備は完了。いよいよ火入れ(次回のお楽しみに)。
「パンズ・ラビリンス」を観る ― 2018年07月26日 23:42
「パンズ・ラビリンス」を観る。今年のアカデミー監督、ギレルモ・デル・トロの監督作品だ。
少なくとも、この国では「ファンタジー」というジャンルは誤解されている。この国の多くの人が「ファンタジー」だと思い込んでいる、子供向けの、毒にも薬にもならない、よい子の教訓話など、決して「ファンタジー」ではない。あれは「カトゥーン」だ。日本の漫画もそれには含まれない。だから[manga」と呼称されている。
実際の、そして現代的な「ファンタジー」は、よい子のお伽話などではない。トールキンの「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」を嚆矢とする現代ファンタジーは、今は「炎と氷の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)」へと発展している。「ハリー・ポッター」はむしろカトゥーンへすり寄ったスタイルだろう。お子様にリビングで見せるには少々重い。現実がダークになればなるほど、ファンタジーもまたそのカウンターとしてダークになる。
「パンズ・ラビリンス」は現代的かつ正統な「ファンタジー」だ。だからカトゥーンでも観るつもりで見ると、手ひどくしっぺ返しを食らう。宣伝ポスターやイメージ画像に惑わされないように。セールスする側も「ファンタジー」と「カトゥーン」の違いがわかっていないのか、違いのわからない観客を引きずり込むための確信犯的プロモーションなのか。
勧善懲悪善悪二元論に見えてしまうようなストーリーだが、そんなに甘くない。主人公オフェリアは、スペイン内乱とその後の粛清を背景にして、厳しい現実から少しずれたところにある幻想世界に引きこまれている。これを現実逃避と観ることもできなくはないが、言ってしまえば登場人物はみなどこか幻想にとらわれている。オフェリアの母は前夫の死後数年で独裁者的軍人ヴィダルと再婚、すでに男の子を妊娠して臨月。お伽話は忘れて現実に生きようとしているが、ヴィダルとの浅からぬ性的関係が示唆されており、現代的女性を幻想の中に見ている様子が伺われる。ヴィダルは悪役だが、その裏に英雄的最後を遂げた軍人である父に対する対抗からか、軍人としての栄誉と、血筋の永続という幻想に突き動かされている。オフェリアと仲良くなる女性メルセデスは、生きるためにヴィダルのもとに仕えているが、実際はレジスタンスの弟と通ずるスパイ。フランコ政権打倒が困難だった現実ももちろんだが、作中でも「負け戦」と言われるレジスタンスもまた、幻想に囚われている。ヴィダルの晩餐会に集まってくるのは上流階級や僧職といった旧体制支持派、つまりフランコ側であり、彼等もまた旧体制という幻想を貪っている。レジスタンスに好意的な医師も、「人として、自分の意志を持ち続けたい」という、当時のスペインでは幻想であっただろう信念に殉じてしまう。オフェリアを導く「パン」にしてすらが、その頭部はヤギ。もちろんこれは「悪魔」のイメージであり、はたしてパンが善悪いずれの存在なのかわからない。
疑心暗鬼渦巻くなか、オフィリアはパンの提示した三つの試練に取り組んでいく。そしてそれと並行して、現実世界でも重く暗い話が進行していく。現実と幻想が交じり合う映像は美しい。森に入り、木々が画面を左右に分割すると、木の影を境に二つの世界が切り替わったり、切り替わらなかったり、森の中での現実と幻想の交錯も見事。そしてなんともグロテスクな表現。これはヨーロッパ映画のテイスト。よい子のディズニー型カトゥーンでは決してない。
当然、内乱や戦争に対するアンチテーゼが底辺にあるが、声高にせず、静かに、美しく、悲しくそれを伝える。ラスト直前のシーンは、じつは冒頭とループしているので、冒頭から結末は見えている。だが、そのループから外れたラストが、多義性をもって我々に訴えかけてくる。ファンタジーの本質は現実に対する寓話。観る側もそれを読み解く努力が求められる。黙ってみていて楽しくすっきりするカトゥーンとは、ここもまた決定的に違う。
「ゲーム・オブ・スローンズ」が受け入れられるなら、問題ない。一見の価値あり。ファンタジーとカトゥーンの区別がつかない向きには、ハードルが高いかもしれない。
少なくとも、この国では「ファンタジー」というジャンルは誤解されている。この国の多くの人が「ファンタジー」だと思い込んでいる、子供向けの、毒にも薬にもならない、よい子の教訓話など、決して「ファンタジー」ではない。あれは「カトゥーン」だ。日本の漫画もそれには含まれない。だから[manga」と呼称されている。
実際の、そして現代的な「ファンタジー」は、よい子のお伽話などではない。トールキンの「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」を嚆矢とする現代ファンタジーは、今は「炎と氷の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)」へと発展している。「ハリー・ポッター」はむしろカトゥーンへすり寄ったスタイルだろう。お子様にリビングで見せるには少々重い。現実がダークになればなるほど、ファンタジーもまたそのカウンターとしてダークになる。
「パンズ・ラビリンス」は現代的かつ正統な「ファンタジー」だ。だからカトゥーンでも観るつもりで見ると、手ひどくしっぺ返しを食らう。宣伝ポスターやイメージ画像に惑わされないように。セールスする側も「ファンタジー」と「カトゥーン」の違いがわかっていないのか、違いのわからない観客を引きずり込むための確信犯的プロモーションなのか。
勧善懲悪善悪二元論に見えてしまうようなストーリーだが、そんなに甘くない。主人公オフェリアは、スペイン内乱とその後の粛清を背景にして、厳しい現実から少しずれたところにある幻想世界に引きこまれている。これを現実逃避と観ることもできなくはないが、言ってしまえば登場人物はみなどこか幻想にとらわれている。オフェリアの母は前夫の死後数年で独裁者的軍人ヴィダルと再婚、すでに男の子を妊娠して臨月。お伽話は忘れて現実に生きようとしているが、ヴィダルとの浅からぬ性的関係が示唆されており、現代的女性を幻想の中に見ている様子が伺われる。ヴィダルは悪役だが、その裏に英雄的最後を遂げた軍人である父に対する対抗からか、軍人としての栄誉と、血筋の永続という幻想に突き動かされている。オフェリアと仲良くなる女性メルセデスは、生きるためにヴィダルのもとに仕えているが、実際はレジスタンスの弟と通ずるスパイ。フランコ政権打倒が困難だった現実ももちろんだが、作中でも「負け戦」と言われるレジスタンスもまた、幻想に囚われている。ヴィダルの晩餐会に集まってくるのは上流階級や僧職といった旧体制支持派、つまりフランコ側であり、彼等もまた旧体制という幻想を貪っている。レジスタンスに好意的な医師も、「人として、自分の意志を持ち続けたい」という、当時のスペインでは幻想であっただろう信念に殉じてしまう。オフェリアを導く「パン」にしてすらが、その頭部はヤギ。もちろんこれは「悪魔」のイメージであり、はたしてパンが善悪いずれの存在なのかわからない。
疑心暗鬼渦巻くなか、オフィリアはパンの提示した三つの試練に取り組んでいく。そしてそれと並行して、現実世界でも重く暗い話が進行していく。現実と幻想が交じり合う映像は美しい。森に入り、木々が画面を左右に分割すると、木の影を境に二つの世界が切り替わったり、切り替わらなかったり、森の中での現実と幻想の交錯も見事。そしてなんともグロテスクな表現。これはヨーロッパ映画のテイスト。よい子のディズニー型カトゥーンでは決してない。
当然、内乱や戦争に対するアンチテーゼが底辺にあるが、声高にせず、静かに、美しく、悲しくそれを伝える。ラスト直前のシーンは、じつは冒頭とループしているので、冒頭から結末は見えている。だが、そのループから外れたラストが、多義性をもって我々に訴えかけてくる。ファンタジーの本質は現実に対する寓話。観る側もそれを読み解く努力が求められる。黙ってみていて楽しくすっきりするカトゥーンとは、ここもまた決定的に違う。
「ゲーム・オブ・スローンズ」が受け入れられるなら、問題ない。一見の価値あり。ファンタジーとカトゥーンの区別がつかない向きには、ハードルが高いかもしれない。
最近のコメント