「最強のふたり」を観る2018年08月02日 23:41

 「最強のふたり」を観る。

 冒頭から不穏な雰囲気。渋滞した道路で、車線を外れ、猛スピードで他の車を縫うように疾走するマセラッティ。運転するのは若い黒人男性、助手席には髭面の中年男性。だが、この中年男性の座る姿勢がどこか不自然。警察に追われると、逃げきれるかどうか賭けをはじめるこの二人、残念ながら逃げきれずに停車。ところがここで、助手席の中年男性が全身麻痺状態の障害者であることがわかる。二人はこの事実をタテに、まんまと警察を出しぬき、逃げることに成功する。

 障害を持った中年男性はフィリップ。大富豪で上流階級。運転していた黒人男性はドリス。ハーレム出身の男。一見水と油の二人がどうしてこれほど息の合った「小悪事」を働けるのか。そこには二人の偶然の出会いがあった。

 この冒頭部分はラスト近くで再度現れる。つまりこの作品はループを描いているわけだ。回想シーンで頭と終わりをつなぐのは映画では珍しくないが、この作品はループ完結後にもう一つエピソードがある。ループから突き抜けたこの構造が、作品の内容を暗示しているようにも見える。

 自分を「障害者」扱いされることにうんざりしている富豪のフィリップ。彼は障害とともに、障害があってもなくても平等に希求する自由すら奪われている。彼のもとに来るヘルパーは誰も彼も障害者としてのフィリップを、社会的低能力者と決めつけている。

 一方、底辺の生活を余儀なくされ、移民として有形無形の差別を受け、学力も就労も保証されず、社会のルールも満足に身につけられず、暴力と犯罪に手を染めなくては生きていけないドリス。だが、彼にはフィリップがどのような状態であろうと、自分と対等の存在として、タメ口で率直にものを言う、越境者の能力があった。

 失業保険を延長するために、就職活動をしていた証明さえ貰えればいいと、最初から売り込む気もなくヘルパーの面接に現れたドリスの率直さが気に入ったフィリップは、彼を試験採用することにする。仕事も雑で乱暴、失態も少なくなく、嫌なことは嫌だと文句を言うドリスだが、どこか憎めない。フィリップを障害者扱いしないドリスは、次第にフィリップの信頼を受け、友情を育み、フィリップの周りの人々にも受け入れられていく。

 フィリップはひょんなことからドリスの芸術的才能を見ぬく。フィリップはドリスに、さり気なく音楽や絵画などの教養を授けていく。社会環境から奪われていたドリスの才能が次第に開花し始める。

 ドリスもフィリップも、社会から本来あるべきものを奪われている存在だった。そして奪われたものは二人とも違い、相互に補完できるものだった。これが二人にとって幸せな出会いとなっている。

 コメディタッチで、ブラックな笑いから下ネタまで。テーマから想像されるような重さや説教臭さは全くない。にやりと笑えたり、黒い笑いにドキッとしたり。特にブラックなのは、ラスト近く、フィリップの髭を剃りながら、フィリップを玩具にして遊ぶドリスのシーン。フィリップもそんな自分を見て笑うのだから、これは二人の遊びなのだが、鼻下のちょび髭だけのスタイルの時は、フィリップの顔色が変わる。「これは笑えないぞ!」だが、ドリスはお構いなし。フィリップの前髪を少し下ろし、フィリップの片手を上げて敬礼スタイル。「障害者のナチ。最高におかしいぞ」。ブラックの極地だろう。フィリップのこの時の顔が、確かに妙にヒトラーに似ているように見えるのが、より一層インパクトを高める。この作品を、今現在アメリカでリメイクしているようだが、その時は髭を落として、金髪の73ウィッグをかぶせるのだろうか。もし日本でリメイクするなら、ここはもっと洒落にならない。「万引き家族」以上の冷遇はまちがいないだろう。

 この作品を見て、昨今のこの国のマイノリティに対する為政者側のさまざまな発言を顧みると、この作品を世界で最初に上映し、世界で最初に映画賞を授与したこの国の良識が踏みにじられているようにしか思えない。

 この映画は、実話を元にしている。作品の最後に、モデルとなった実際の二人の映像が、ほんの少しだけ流れ、簡素な説明が字幕で表示される。その奥ゆかしさがまたいい。

「マッドマックス」を観る2018年08月03日 22:54

 「マッドマックス」を観る。第一作目だ。

 かつての西部劇のフォーマットに実直なまでに忠実。現代ならCGやら特殊メイクやらで、下品なぐらい露悪的に描かれるバイオレンスシーンやグロテスクなシーンも、古典的な処理で描かれ、観客が与えられた断片的な映像や、肉食鳥のイメージ画像から補完しなくてはならない。何もかも見せてもらえないと理解ができないタイプの観客には、敷居が高いか、刺激がなくて退屈と感じる人もいるだろう。

 燃料危機と治安崩壊は描かれるが、後のシリーズの売りである、核戦争後のディザスター設定はない。マックスは腕利きの警官で、誰もが一目置く存在。これが出世作だったメル・ギブソンの若いこと。

 冒頭の、ナイトライダーと自称する暴走族グループの一員を追い詰めるが、かわされてしまう警官たち。そして最後に、なかなか姿を見せない謎の腕利き警官、マックス。マックスに追われ、怯えるナイトライダー。ナイトライダーは事故死するが、これが遺恨を残してしまう。

 マックスの友人グースが暴走族の手によって全身大やけどを負う。その無残な姿を見たマックスの恐怖は、変わり果てたグースというより、グースをそんな目に合わせた暴走族に、自分自身が傾いていくことへの恐怖だった。一度は警官をやめようとしたマックスが、妻子と幸せな休暇を送る。ここを間延びと取る人もいるだろうが、この部分が退屈なほど甘く幸せでないと、妻子を襲う悲劇の重さも伝わらない。まだ幼い子供を暴走族の報復で殺され、妻も重態。映像ではその姿は見えないが、シーツの下の姿は四肢がおそらく欠損、社会復帰も困難な状況だと容易に想像がつく。おそらく「死人のように立ち尽くす」マックスには、友人グースと自分の妻が重なっていたのだろう。

 そしてついに、警官のユニフォームを身に着けながら、狂気の復讐鬼となる「マッドマックス」に。オーストラリアの広大な荒野、果てしなく伸びる道での、いつ果てるともない追跡と復讐。途中策略で膝を撃たれ、満足に動けなくなったマックスは、ついにショットガンを直接暴走族の一人に叩きこみ、這いつくばりながら車に戻って追跡を続ける。撃たれた場所から車までは僅かな距離。それがマックスにとっても観客にとっても無限の彼方のように感じる。

 ラスト、復讐を終えたマックスの顔にはカタルシスのかけらもない。暴力は暴力しか生まない。暴力による報復も、失われた幸せを取り戻すことはできない。最後に残った理性も捨て、警官のユニフォームという最後の良心の象徴を身に着けたまま、リンチという悪に染まったマックスには、すでに喜びも幸せもない。

 低予算B級映画であることを逆手に取ったような、肉弾アクション、ラフな編集。これを下手というか、必然を逆手に取った巧妙さというかも、意見が別れるところだろう。「仮面ライダー」の第一話にも似たようなテイストがある。

 古典的なフォーマットは外していない。今風のお行儀の悪さもない(明らかに性的暴行を受けている被害女性がきちんと着衣している、無残な死体や負傷者を見せつけるようなことはしないなど)。だから、前述のとおり、そのフォーマットから想像力を働かせることのできない観客には、浅い理解しかできないだろう。もっとも、そんな不幸を想像することもできないほど幸せな観客が増えたということかもしれない。お作法を身につけてこの作品を見ると、この作品が持つ本当の力も伝わるだろう。

 いわれのない暴力を、自由を希求する手段として使う暴走族、それを阻止するために暴力を使う警官、理性をもって罪を裁こうとして、逆に犯罪者を野放しにしてしまう役人、そして、不毛とわかっていながら、暴力に染まり、復讐に身を置く、全てを失った男。これほど救いのない、怒りに満ちた、力のみなぎる作品は少ない。

オリンピックというけれど2018年08月05日 22:14

 オリンピックをやるのに、人手が足りないという。

 ボランティアを募っても、拘束日数がやたらに長くて、とても仕事と両立ができそうにない。ボランティアは自分の仕事や生活を放棄してまで行うことではないのだから、無理な条件をつけたって、誰も応募できない。

 次に、ボランティアのための長期休暇を与えるように企業に働きかけるという。だが、オリンピックが景気浮揚対策となるということは、開催中に経済活動をする場所も増え、つまりは労働する人間も増えるということ。業種によっては、職員がボランティアにいくのは死活問題ともなりかねない。

 その次は、学生に目をつけた。ボランティアがなぜか入試や入社試験でお得な活動となっているらしい。だが、学業優先、就職活動優先なのは言うまでもない。安定雇用されているはずもない学生には安定した収入がないのだから、交通費、宿泊費を考えると、二の足を踏まざるを得ない学生も多い。それぐらい、貸与奨学金ではもうどうにもならないことがわかっているのだから、想像できるはずだ。

 次に、オリンピック開催期間中は大学等は休みにせよと言い出した。ここまで来ると、どうしても昔の嫌な歴史を思い出してしまう。そう、学徒動員。

 そのうち「オリンピック国家総動員法」などというとんでもない法律でも作りそうな勢いだ。これが成立すると、「ボランティア招集令状」なんて来るのかもしれないと、妄想モードに突入してしまう。

 今の政権なら、しゃれにならない。

「トレインスポッティング」を観る2018年08月06日 21:46

 「トレインスポッティング」を観る。

 なんとも救いのない映画だ。ディックの「スキャナー・ダークリー」だって、最後の麻薬供給元のオチで若干救いもなくはないが、この話にはそんな甘い救いなどどこにもない。

 ドラッグ中毒、でたらめな生活、ドラッグをやめようと思い立っても、それをはじめるまでのつなぎのドラッグが欲しくてたまらない。泥沼である。現実は薄汚れ、貧相で、どん底なのに、ドラッグを透かして見た世界は不思議な美しさを持っている。だが、それもひととき、戻った現実は最下層。

 友達の秘蔵エロビデオをくすね、それを見たあとナンパしてできた彼女はなんと未成年。イギリス(というかアイルランド)ではこれは犯罪。ドラッグ中毒の男がそれにビビるというのも、なんとも皮肉。

 エロビデオをくすねたのが原因で、友達が彼女と破局。やけになった友達にドラッグを教えこむと、友達は一気に中毒に、そしてAIDSに感染し、死んでしまう。ドラッグ中毒の仲間の産んだ赤ん坊も、全員ラリって育児放棄したため、死んでしまう。荒れて万引きすると、一緒に万引きした友達は実刑なのに、たまたまドラッグ断ちに取り組んでいたため執行猶予。
主人公はなんともバツの悪い境遇におかれる。

 ドラッグ断ちの禁断症状の描写もすごい。これみよがしなサイケデリックな世界ではなく、遠近法を歪める程度。それでも恐怖は伝わってくる。

 真面目になろうとロンドンで不動産業に就職するが、これがかなり悪徳業者。そして、ドラッグ中毒仲間にまた引き戻されてしまう。そして再びドラッグ。この時の遠近法の崩壊と視野狭窄の描写がうまい。

 ラストシーンも慄然とする。モノローグを真に受ければ、なんとも甘いラストだが、もちろん真に受けてはいけない。

 シリアスにやれば、どうしようもなく暗いのに、音楽と演出の妙で、どことなくおかしみのある作品になっている。だが、決して信賞必罰や善への志向などといいうものはない。リアルに、淡々と、当時のイギリス・アイルランド社会の底辺を切り取った作品と見るべきだろう。誰が悪いわけでも、誰がいいわけでもない。ただ、そこにある世界を見せる、そういう作品。

 ファッション的に捉えられている向きもある作品だが、その内容はずしりと重い。好き嫌いがでる作品だろう。だが、得てしてそういう作品は尖っていて、力があることが多い。この作品も力がある。

「深夜の告白」を観る2018年08月07日 23:46

 「深夜の告白」を観る。

 監督は名匠ビリー・ワイルダー。脚本はビリー・ワイルダーとレイモンド・チャンドラー(もっとも執筆はかなり険悪なムードであったらしい)。

 夫の保険金殺人を目論む美しい後妻フィリスと、その片棒を担ぐ優秀な保険セールスマン、ネフ。犯人は最初からわかっているが、それを暴いていくのは保険調査員でネフの友人、キーズ。物語は全てのできごとが終わり、ネフが深夜のオフィスでディクタフォン(今で言う録音機)に全ての告白を録音するシーンから始まる。

 1944年制作のこの作品は、フィルム・ノワールの先駆とも呼ばれ、またフィリスは美しい悪女、ファム・ファタールの古典的キャラクターとされている。暗く重い雰囲気、抑えた音楽、夫が死んでも全く動じない上に、過去にも殺人を犯しているらしいフィリスの破滅、そして完全犯罪を企てながら、良心の呵責や不安、フィリスの裏切りに対する怒り、最後に見せる温情と破滅、フィルム・ノワールの全ての要素がきちんと収まっている。ラストには男同士のやるせない友情と、ほぼ完璧と言っていいほどの作品。

 娯楽を求めて観る作品ではないが、もっと高く評価されてもいいのではないかと思える作品。