日本代表のサッカー2018年07月02日 21:50

 予選リーグの最終戦のラスト、日本チームの戦術について、あれこれと世の中は騒がしい。

 日本チームはただ単に「決勝トーナメントに進出する」という「お仕事」を、勤勉実直に行っただけのことだ。彼等にとってそれが「お仕事」なのだから、はたからとやかく言われる筋合いはない。彼等は「サッカーショー」をしているわけではないのだ。「お仕事」の貫徹が再優先事項なのだから。

 ところが、観客は試合という「ショー」を求めた。営業品目が違うのに、出されたものが違うと言うのはお門違いだろう。「いい試合」を求めるのなら、その試合の結果がどうであろうと文句を言う筋合いではない。勝っても負けても「面白かった!」で十分だ。

 誰が日本代表に「決勝トーナメント進出」というお仕事を課したのか。あるいは彼らが「課された」と思わされたのか。スポーツは遊びでなければならないし、ショーであるのならそれなりの演出が求められる。仕事となればスポーツはその原初の形である「戦争」の様相をむき出しにする。日大アメフト部の問題しかり、大相撲の問題しかり、今回のサッカーもまたしかりだ。一つ間違えればスポーツは古代ローマのコロセアムでおこなわれた、奴隷による命がけの殺戮の次元に戻ろうとする。パス回しで時間稼ぎ、試合の勝ち負けより決勝トーナメント進出の安全牌を狙うなど、それに比べれば可愛いもの、より紳士的かつ文化的選択だ。

 「お仕事」を見るのなら、結果だけがわかればよい。
 「ショー」を見るのなら、結果ではなく過程をたのしめばよい。
 結果と過程がどちらも観客の望むものになれば、それは単なる僥倖。絶対を要求するのは無理無体だ。

 いったい「観客」たちは、スポーツに何を求めているのだろう。お前はどうなのかという声が聞こえてきそうだが、私の頭の中にはスポーツ観戦とコロセアムでの闘技鑑賞とが等価に座っているので、できる限りスポーツ観戦全般と距離を置きたいのである。

「ノック・ノック」を観る2018年07月04日 23:50

 「ノック・ノック」を観る。

 キアヌ・リーヴスの情けなさっぷりが堂に入っている。とても飛んでくる弾丸をのけぞってよけたり、悪魔とガチバトルしたり、復讐のために悪党を容赦なく殺していくようなキャラクターとは繋がらない。

 もっとも、ずぶ濡れの若い女二人を、どんな理由があるにせよ家に入れ、ネット端末を弄らせてしまえば、もうどうにも取り返しがつかないだろうに、とも思う。冒頭の「おあずけ」シーンと「グラス」吸引未遂シーンが伏線なのかもしれないが、違和感を感じた。

 悪女2人の悪乗りと無軌道ぶりは相当のもの。見ていると胸が悪くなるほどだ。ただ、キャラクターの造形としては人間というよりむしろモンスターのそれに近い。存在理由も背景もない、ただの日常破壊者。

 なんのことはない。77年に制作された「メイク・アップ」という作品のリメイクらしい。悪女二人のぶっ飛びぶりはこちらのほうがすごいらしいが、ラストもすっきりなのだそうだ。くくりは「ホラー」。それで腑に落ちた。やっぱりあの悪女二人、人間ではなくあちら側の存在らしい。

 結局、キアヌは今回魔女に見事に逆襲されたということか。

「疑惑の影」を観る2018年07月06日 00:10

 ヒッチコックの「疑惑の影」を観る。

 ショッカー描写皆無、古き良きアメリカ西部のありふれた家庭が舞台。

 ジョセフ・コットンが冒頭から何かに追われている様子。そして電報で姉一家を西部の街に訪問すると連絡する。これが物語の発端。列車の中でも閉じこもり、仮病を使って列車から降りるが、迎えに来たヒロインの姪の姿を見るとあっというまに元気に。このあたりから胡散臭さが一気に高まる。

 家族への手土産も高級品ばかり。義兄の勤める銀行に大金の口座を開き、羽振りが良さそうだが、姪に渡したエメラルドの指輪には送り主とおくわれた側の見知らぬイニシャルが彫ってあって、明らかに出自が怪しい品物。

 次第にジョセフ・コットン演じるチャーリー叔父さんの正体が暴かれ、姪のチャーリーに危険が迫ってくる。そしてラスト。

 ヒッチコックらしいサスペンスと言っていいだろう。品よく、ユーモアもあり、それもブラック。そしてスリルとサスペンス、ロマンスもあり。文句なしの作品。

 制作は1942年。作品に登場する新聞には「TOJO」の見出しが。そう、これは太平洋戦争が開戦した翌年公開されている。戦争を仕掛けられたアメリカが、このような一級娯楽映画を作り、戦争を仕掛けた日本はといえば…国力の差は歴然だ。

「死刑執行人もまた死す」を観る2018年07月10日 18:00

 「死刑執行人もまた死す」を観る。監督はあの「メトロポリス」のフリッツ・ラング。制作は1943年、ナチスがヨーロッパで破竹の快進撃を続けている時期。このころ全世界はヒトラー支配下に収められるかもしれないという観測がまだ現実味をもっていた時代。

 当時のアメリカ映画のご多分にもれず、これはアンチナチスのイデオロギー映画と言わざるを得ない。だが、「カサブランカ」の例もある通り、ただイデオロギーをぶち上げるだけで受け入れてもらえるほどアメリカは甘くない。極上のエンタテインメントとイデオロギーの両立が求められる。それに成功した映画は、ナチス崩壊後もその輝きを失うことがない。この作品もそんな一本。

 もちろんクラシックな映画なので、当時の表現コードに照らして、残虐シーンやエロチックなシーン(実際にはエロチックな出来事など何もないのだが)は抑えめで、派手なアクションも煽りもないので、今のてんこ盛りジェットコースター映画しか知らない、口を開けて見ているだけの雛鳥観客には食い足りないかもしれない。だが、監督のラング自身がナチスの迫害に追われて亡命した過去を持ち、彼の元妻であるテア・フォン・ハルボウはナチス党員。彼の身体にはナチスへの恐怖と怒りが染み付いている。彼等にとって反ナチス映画は命がけの抗議であるとともに、奪われた平和で幸福な日常生活への渇望と、再起に向けての不屈の闘志の表明だったはずだ。映画人として全てをかけて作った作品の魂を感じられないとしたら、エンタテインメント中毒としか言いようがなかろう。「独裁者」を撮ったチャップリンもまたしかり。

 チェコスロバキア(作品製作時の国名)は、ナチスに蹂躙され、国民は民主政治と言論の自由を希求した。ナチス崩壊後のプラハの春は旧ソ連によって蹂躙され、チャウシェスク政権による恐怖政治にあえいだ。だが、ビロード革命で再びチェコスロバキアの国民は民主主義と言論の自由を勝ち取る。まさに"Never surrender"である。

 そして、今もまだなお、"Never surrender"は世界に通用する。

くわばらくわばら2018年07月18日 22:10

 災害があっても、身内の宴会はやめず、その情報を垂れ流して「広報活動」と認識している政治家がいる。

 自分の身内に、言うことを聞かないと報復は覚悟しておけなどと恫喝まがいの発言をする政治家もいる。

 自国の災害も彼岸の火事としか捉えられない政治家は、他国の人間の生死もただの記号としてしか捉えられないだろう。

 自分の身内にも服従を求めて恫喝するような政治家は、自分の意志とは違った思想信条を持つものも恫喝し、服従させるだろう。

 かつてそうやって、組織的大量虐殺を行い、軍事力で他国を蹂躙した国家があった。そう言えばその国家に学ぶことを提唱した政治家もいたような。

 こんなブログを上げていると、そのうちある日突然、マルクスとマルサスの違いもわからないような困った御仁にどこかに連行されるかもしれない。

 くわばらくわばら