「パンズ・ラビリンス」を観る2018年07月26日 23:42

 「パンズ・ラビリンス」を観る。今年のアカデミー監督、ギレルモ・デル・トロの監督作品だ。

 少なくとも、この国では「ファンタジー」というジャンルは誤解されている。この国の多くの人が「ファンタジー」だと思い込んでいる、子供向けの、毒にも薬にもならない、よい子の教訓話など、決して「ファンタジー」ではない。あれは「カトゥーン」だ。日本の漫画もそれには含まれない。だから[manga」と呼称されている。

 実際の、そして現代的な「ファンタジー」は、よい子のお伽話などではない。トールキンの「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」を嚆矢とする現代ファンタジーは、今は「炎と氷の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)」へと発展している。「ハリー・ポッター」はむしろカトゥーンへすり寄ったスタイルだろう。お子様にリビングで見せるには少々重い。現実がダークになればなるほど、ファンタジーもまたそのカウンターとしてダークになる。

 「パンズ・ラビリンス」は現代的かつ正統な「ファンタジー」だ。だからカトゥーンでも観るつもりで見ると、手ひどくしっぺ返しを食らう。宣伝ポスターやイメージ画像に惑わされないように。セールスする側も「ファンタジー」と「カトゥーン」の違いがわかっていないのか、違いのわからない観客を引きずり込むための確信犯的プロモーションなのか。

 勧善懲悪善悪二元論に見えてしまうようなストーリーだが、そんなに甘くない。主人公オフェリアは、スペイン内乱とその後の粛清を背景にして、厳しい現実から少しずれたところにある幻想世界に引きこまれている。これを現実逃避と観ることもできなくはないが、言ってしまえば登場人物はみなどこか幻想にとらわれている。オフェリアの母は前夫の死後数年で独裁者的軍人ヴィダルと再婚、すでに男の子を妊娠して臨月。お伽話は忘れて現実に生きようとしているが、ヴィダルとの浅からぬ性的関係が示唆されており、現代的女性を幻想の中に見ている様子が伺われる。ヴィダルは悪役だが、その裏に英雄的最後を遂げた軍人である父に対する対抗からか、軍人としての栄誉と、血筋の永続という幻想に突き動かされている。オフェリアと仲良くなる女性メルセデスは、生きるためにヴィダルのもとに仕えているが、実際はレジスタンスの弟と通ずるスパイ。フランコ政権打倒が困難だった現実ももちろんだが、作中でも「負け戦」と言われるレジスタンスもまた、幻想に囚われている。ヴィダルの晩餐会に集まってくるのは上流階級や僧職といった旧体制支持派、つまりフランコ側であり、彼等もまた旧体制という幻想を貪っている。レジスタンスに好意的な医師も、「人として、自分の意志を持ち続けたい」という、当時のスペインでは幻想であっただろう信念に殉じてしまう。オフェリアを導く「パン」にしてすらが、その頭部はヤギ。もちろんこれは「悪魔」のイメージであり、はたしてパンが善悪いずれの存在なのかわからない。

 疑心暗鬼渦巻くなか、オフィリアはパンの提示した三つの試練に取り組んでいく。そしてそれと並行して、現実世界でも重く暗い話が進行していく。現実と幻想が交じり合う映像は美しい。森に入り、木々が画面を左右に分割すると、木の影を境に二つの世界が切り替わったり、切り替わらなかったり、森の中での現実と幻想の交錯も見事。そしてなんともグロテスクな表現。これはヨーロッパ映画のテイスト。よい子のディズニー型カトゥーンでは決してない。

 当然、内乱や戦争に対するアンチテーゼが底辺にあるが、声高にせず、静かに、美しく、悲しくそれを伝える。ラスト直前のシーンは、じつは冒頭とループしているので、冒頭から結末は見えている。だが、そのループから外れたラストが、多義性をもって我々に訴えかけてくる。ファンタジーの本質は現実に対する寓話。観る側もそれを読み解く努力が求められる。黙ってみていて楽しくすっきりするカトゥーンとは、ここもまた決定的に違う。

 「ゲーム・オブ・スローンズ」が受け入れられるなら、問題ない。一見の価値あり。ファンタジーとカトゥーンの区別がつかない向きには、ハードルが高いかもしれない。

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