「女は女である」を観る2023年01月12日 21:22

 「女は女である」を観る。1961年、フランス・イタリア合作映画。監督はジャン・リュック・ゴダール。

 全編、コラージュ仕立ての作品。ストップモーションや書割的背景(決まった場所でいつも決まった男女が抱き合っているなど)が多用されている上に、主役二人が痴話喧嘩を始める前に観客に挨拶をするなど、映画内映画のような表現もある。

 音楽もまた然りで、突然音声がぶつ切りになって無音になったり、ボーカルが始まると伴奏がいきなり消えたりと、観る側を戸惑わせるような演出も多い。

 シチュエーションギャグも。主人公二人が同棲している部屋の隣の女性住人が彼らに電話を貸すのだが、そのたびにその部屋には違う男性が出入りしている…要するに隣の部屋の女性は「営業」しているのだが、そこがなんともおかしい。アメリカ映画あたりの艶笑ギャグの雰囲気だ。ゴダールもそこを狙っているフシがある。

 アンナ・カリーナ演じる主人公アンジェラがキュートだ。ストリッパー稼業なのだが、陰りも荒みも微塵も感じられない。同棲相手のエミール(ジャン・クロード・ブリアリ)は稼ぎが少なく、アンジェラと正式に結婚することをまだリアルに捉えたがっていない。そんな中でアンジェラが「24時間以内に子どもが欲しい」と言い始めたところからこの二人の痴話喧嘩が始まる。

 今の目から見たら、本当に男中心視点の作品だ。アンジェラがなぜ子供を欲しがるのか、エミールがなぜそれに踏ん切りをつけられないのか、そこにはこの作品は踏み込まない。そしてアンジェラに対するエミールの扱いのひどいこと。リアルな作品にすれば、ドロドロの醜い争いになること必定だ。だが、この作品はそちらの方には向かわない。コラージュのように、断片的に、おしゃれで陽気なな表面を散りばめていくばかり。そう、これはあくまで「おしばい」であり、「コメディ」なのだ。リアルを求めている作品ではない。コラージュであるこの作品はあえてコラージュであることを全面に出して、リアルな世界から切り離された「夢」のひとときを生み出しているのだろう。主役級俳優であるジャン・ポール・デルモントですら、コラージュのひとつの要素としてしか登場してこない。なんとも贅沢だ。

 だから野暮なツッコミは禁物。ちょっとエッチでとびきりおしゃれな小粋な大人のコメディを楽しもう。