教育についての古くて新しい話2017年08月01日 23:54

 青空文庫を何気なしに眺めていたら、今から100年ほど前の理科教育についての短文が見つかった。なかなか興味深い。

 まず、物事を鵜呑みにさせるような教育はだめ。自分で考え、自分で疑うことが大切。義務教育は社会的ルールを身に付けるのが再優先で、学業はそこそこでよい。義務教育の目的は、社会的ルールと、自分たちで考え、自分たちで疑い、自分たちで仮説を立て、自分たちで検証する能力の育成であって、教師はアドバイザーで十分。当然授業内容も量的に少なくて構わない。量的な問題は、高校で一気に詰め込みすればよい。詰め込む必要性は義務教育で自分たち自身の活動を通じて身にしみてわかっているからだ。

 どこかで聞いたような話だ。ただ、こちらは100年前。

 おまけに、このような教育をやっても、そんな子どもたちを受け入れる能力がないのなら、その社会そのものがダメなのだとまで言い切っている。

 100年後の我々の社会は、一体どうなのだろうか。

「第9地区」鑑賞2017年08月02日 21:45

 映画「第9地区」を鑑賞。

 少し前の作品で、世評も高かったが、やっと今回ゆっくりと観ることができた。

 舞台はヨハネスブルグ。昆虫型(作中ではエビと呼ばれている)エイリアンが難民化してすでに20年以上、難民キャンプはスラム化し、治安も悪化、エイリアンの立ち退きと、新たな難民キャンプ(現在の第9地区よりさらに狭小で劣悪な環境らしい)への移動が行われようとしている、そんな設定だ。

 ヨハネスブルグ、第9地区、こういった名詞から思い浮かぶのはアパルトヘイト政策だが、この作品ではその事実さえ単なる暗示に過ぎない。ここに現出されているのは、美醜という曖昧な価値判断、貧富という社会的ヴァーチャル環境での格差、強弱という原始的権力構造、エゴと利他という行動原理構造などによって生み出される、構造的「差別」の様態だ。それは人間があまねく持っているダークサイド、負の業そのものだ。だからこの作品は観るものを選ぶ。そのような負の業に対する認識の強弱、深浅をストレートに突いてくる。

 また、構造差別が生み出す社会の歪み、人間の歪みもリアルに提示される。当然南アフリカ出身監督の生み出す世界観は、南アフリカのリアルな社会を引きずるわけで、それに対する知識や許容度が低い観客には、不快で意味がわからず、面白くないと切り捨てられるだろう。あまりにリアルな5歳児を真正面から描いたために、PTAから総スカンをくらって俗悪番組としてやり玉にあげられる「クレヨンしんちゃん」と、そのへんは似ているかも知れない。

 だからといって、ひたすら暗く重い場面ばかりではない。キーとなる物質についての説明は作中になく、突っ込みどころだが、現実に全てが解明されることなど稀だし、かえって異星のテクノロジーにはわけのわからないものがある方がリアルだろう。だが、この物質の一見ご都合主義的な設定は、どことなくとぼけたブラックユーモアを生み出しているのも確かだ。この物質のせいで、なんともヘタレで軽薄な主人公は、身体が変異し、エイリアン化していく。この装置は「紳士協定」で主人公の新聞記者がユダヤ人差別を身を持って知るために、自分の名前をユダヤ人的に変えて、差別を受ける立場に身を置くのと類似している。

 主人公もヘタレでエゴイスト。だが、妻への愛情は本物。主人公の周囲も、善人とも悪人とも判別しがたい。この辺の多面性もリアルだ。婿には冷淡だが、娘には甘い悪役だの、合法的な殺戮の快感に溺れた優秀な兵士だの、一面的ではない。オーバーテクノロジーを持っていながら、その実態は全く理解しておらず、宇宙船の整備や操作すら満足にできずに暴力的に暮らすエイリアンも、突っ込みどころというより、現実の我々と同じだと思える。我々だって、まともに機能する自動車がひとたびトラブルを起こすと、ほとんどのドライバーはお手上げではないか。突っ込むどころか、身につまされてしまう。

 スプラッタ描写も容赦ない。武器携行そのものが日常から排除されている日本人にとっては、リアリティのない残酷描写となるだろうが、ヨハネスブルグの空気は、おそらくこのような残酷描写も現実が飲み込んでしまうほどのものなのだろう。というより、構造的差別が目に見える形で現出しているスラムでは、どこでも日本の平和な現実とはかけ離れた現実があるのだ。

 POVを多用し、報道番組の枠組みを持った冒頭と、ドラマが展開する中盤以降の切り替えも見事だ。わかりにくいと感じる向きもあるだろうが、現実的にリアルタイムでの情報は混乱と未整理の状況で我々に提示されるのであって、冒頭部分もリアリティを醸し出す重要な役割を担っている。これを不親切などと言うのは、あまりに狭量な見方と言えるだろう。

 ラストはカタルシスを産むバトルシーン。展開は定番のパターンだが、このシーンを観る観客は、人間を敵とみなし、冒頭不気味で醜いと感じさせられたエイリアンに感情移入させられている点が皮肉だ。美醜と善悪が完全に冒頭と180度入れ替わってしまっている。このカタルシスはとんでもなく苦い。

 ラストシーンは決してハッピーエンドではない。だが、どこかほんのりと温かいものとなっている。多くは語らない。不要な煽りもない。静かに、余韻を残すように、そして明確な解決を見ないまま、物語は終わる。何もかもすっきりと大団円などといううそ臭いラストシーンでは、ここまでリアルにこだわった世界観がぶち壊しだ。このエンディングはこれでいい。これでなくてはならない。

 続編の話もあるが、私はあまり感心しない。スピンオフ的作品を制作するという含みがあるコメントが監督から発表されているが、そのほうが正解だろう。なにせ20年以上のエイリアン難民問題という世界観だ。スピンオフの可能性は無限。無理にこの話のオチをつける必要もないだろう。高校生に「羅生門」その後を書かせるという噴飯物の課題がよく出されるが、あれと同じ、ヤボの極致だ。

 映画に単なる「めでたしめでたし」を求めたい人、何もかも説明してもらわないと腹が立つ人、ただ面白いものしか求めたくない人には、合わない作品だろう。だからといって文句を言うのもお門違いだ。観るものを選ぶ、それは観るものが対峙するための知力の有無と比例する。早計に「つまらない」などと言うと、後々忸怩たる思いにとらわれてしまうのではないか、この作品はそういう意味で「重い」。

内閣改造2017年08月05日 23:18

 内閣が改造されたそうだ。

 なんでも、キャッチフレーズは「仕事人内閣」というらしい。

 願わくは「必殺仕事人内閣」となって、昼行灯の顔を装って、裏で金で恐ろしいことを画策し、気に入らない奴らをバッサリ…などということにならないように。

ポケモン・怪盗グルー鑑賞2017年08月06日 22:17

 「劇場版ポケットモンスター きみにきめた」を鑑賞。

 サトシとピカチュウの出会いはTV版の第1シーズン第1話で描かれているが、リアルタイムではすでに20年以上過去の話だ。TVはまだブラウン管、4:3の時代。もはやレンタルDVDも店頭には見当たらず、かろうじて配信サービスで視聴できる程度になっている。いまの子どもたちには、サトシというキャラクターの基本設定、ピカチュウとの関連性については所与のものとなっている。それを映画の形で若干のリブートを加えて、原点を再度確認する作品となっている。

 最近のシリーズでの、どちらかといえば超人的なヒーローの様相が強かったサトシから一転し、TV第1シーズンの頃の未熟な少年に戻ったことで、サトシの本質的な有り様が明確化されている。TVシリーズ自体がサトシの成長物語を堅実につくりあげているので、要所要所にTV版のエピソードを効果的に散りばめ、子供向け作品にありがちな、大人の妄想で出来上がったよい子の世界ではなく、TV版同様、ビターでダークな面もきちんと描かれていているのがよい。

 大団円もスペクタクルだが、舞台はミニマムにまとまっている。再現されたTV版第1話のエンディングが、この部分で再度リピートされる。このラスト部分は、劇場第1作「ミュウツーの逆襲」を彷彿とさせ、それに匹敵するものとなりえている。オンエア問題を受け、コンテンツそのものの存続をかけて制作された第1作を凌駕することがなかなかできなかったポケモン映画だったが、今回やっとそれに比肩できるものとなったのではないか。

 エンドクレジットは、フランスのプレミア上映では喝采を浴びたという。TV版と本作との連関性をコンパクトに、オールドファンにはノスタルジックに演出する、心憎いクレジットだ。だが、大きくキャラクターデザインが変わった現TVシリーズとの断絶性はより強調されてしまったようにも思える。もしかしたら、本作は旧キャラクターデザインの総決算、あるいは決別の意味もあったのかも知れない。とすれば、背水の陣の「ミュウツーの逆襲」と比肩しうる作品となったのもうなずける。

 「怪盗グルーのミニオン大脱走」は、なんとも焦点の絞りにくい作品だったと感じた。悪役が80年代を引きずる悪党で、音楽、ファッション、センスが全て80年代。「愛は吐息のように」や「BAD」、「フィジカル」といった80年代の名曲が使われているが、今の日本の子どもたちにはピンときていなかったようだし、親の世代にとってもすでに古い曲。ミニオンはメインフレームであるグルーのストーリーとはほとんど噛みあうこともなく、緊密なストーリー性や伏線も伺えない。ヒロインがグルーの娘たちに母親と認知してもらうプロセスも、単に圧倒的な戦闘力と身体能力に依拠した暴力的な保護行動に娘達が感動し依存するといったもので、力こそ正義といったポリシーが紛々と漂う。キャラクターの掘り下げや関係性についての描写はかなり端折られていて、視覚的ギャグやめまぐるしい動きで押し切ろうとしている感じが強い。

 言ってしまえば、典型的なアメリカの「カートゥーン」のパターンを踏襲していると言える。何も考えず、ひたすらスラップスティックギャグにはまってしまえば十分楽しめる。その中に家族愛をスパイス程度に効かせて、きれいにまとめ上げた作品だろう。

 「物語性」を追求し、アニメーションや子供向けと認識されるジャンルを「表現媒体」として捉えた「ポケモン」と、「カートゥーン」というジャンルを所与のものとして、そこに「物語性」をフレーバーとして投入する「怪盗グルー」、両者を同列に比較するのは、そのベクトルの違いからしてフェアではないだろう。だが、作品の総合力という点から考えれば、「ジャンル」のイメージという軛から開放された「ポケモン」の方に軍配が上がる。当然、「ポケモン」の延長線上に「クレヨンしんちゃん」があり、「君の名は、」があるのは言うまでもない。

「死の鳥」読了2017年08月07日 22:44

 ハーラン・エリスン著、伊藤典夫訳、「死の鳥」を読了。

 SF小説の世界ではあまりに有名な「喧嘩屋」エリスン、そして「天才」エリスンの作品は、その名声に反してこの国ではあまり体系的に紹介されていない。有名な大型アンソロジー「危険なビジョン」も、その一部が訳出されて久しく、訳出されたものもすでに入手困難。

 しかし、エリスンの短編小説のタイトルは、人口に膾炙している。「世界の中心で愛を叫んだけもの」(原題は"The Beast that Shouted Love at the Heart of the World"、日本語タイトルは直訳である)は、古くは羽田健太郎が手がけた「宇宙戦士バルディオス」のBGMの一曲に、「宇宙の中心で愛を叫んだマリン」となぞられた。ちなみにこの作品のBGMは、LPレコード発売時に古今の有名なSF小説のタイトルをもじって名付けられている。そののち「新世紀エヴァンゲリオン」のTV版の1エピソードのタイトルに引用され、最後にはエリスンのバイオレンス小説とは対照的な難病悲恋ストーリー、「世界の中心で愛を叫ぶ」にまで引用されている。そのおかげもあるのだろうか、これまでエリスンの本としては、この作品を表題とした短編集が絶版なしで刊行され続けてきた。

 今回の「死の鳥」は、日本オリジナル短編集となっている。トップを飾るのは『「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった』。なんともユーモラスなタイトルだが、チャップリンの「モダンタイムス」を彷彿とさせるような、そして「殺人狂時代」の雰囲気も醸し出す作品。過労死、ブラック労働といった問題がはびこる現代日本で、この作品は重い意味を持って迫ってくる。
 邯鄲の夢と言うにはあまりに悲惨な現実、「竜討つものにまぼろしを」、ターミネーターのアイディアを先行した(事実エリスンは「ターミネーター」を盗作と考えていたらしい)「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」、カジノに現れた破滅寸前の男と、不気味なスロットマシーンの話、「プリティ・マギー・マネーアイズ」、切り裂きジャックもの「世界の縁にたつ都市をさまよう者」、表題作であり、旧約聖書の楽園追放の話を逆転させた、衰亡した地球をさまよう男のストーリーが断片的に、順不同に並べられ、さらにその間に現実のエッセイまで入り込む大胆な構成の「死の鳥」、モダンホラーとして秀逸な「鞭打たれた犬たちのうめき」、シュール極まりない「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」、失われ、二度と戻らない過去への痛烈な哀惜「ジェフティは五つ」、そして、ノワール小説とも、ホラーとも、なんとも不思議な「ソフト・モンキー」

 どの作品にも通底しているのは、失われた過去への哀惜と、それを破壊する暴力的な近代化と、それを強制する社会や権力への怒り、抵抗、反骨心だろう。しかしエリスンの作品は決して単なる懐古主義に堕していくことがない。失われたものを惜しみ、悲しみ、悶えながら、それでも時の流れを受け入れ、歯を食いしばって生き延びていこうとする意志が描かれているように感じる。だからこそ、エリスンの作品はマイノリティや弱者に限りなく優しい。今を生きる者たちが密かに抱えている、過去を捨てたことについての心の傷へのまなざしの暖かさがあるからこそ、作品は色褪せずに輝いている。

 エリスンはシナリオライターとしても有名だが、スター・トレックのTOS屈指の名作と呼ばれた第28話「危険な過去への旅」(原題は"The City on the Edge of Forever"、ノベライゼーションの日本語タイトルは「永遠の淵に立つ都市」)を書いたのもエリスン。実際には製作中にオリジナル脚本に手を入れられたようだが、このエピソードもまた、過去への哀惜、それを失いつつ、傷を抱えたまま、それでも生き続けなければならない人間の姿が描かれている。

 権威に逆らい、良識を疑い、弱いものにとことん優しく、傷を抱えながらも生きる意志を捨てない。そしてあくまで軽く、飄々とトリックスターであり続ける。かっこいいとはまさにこういうことなのだろう。