「ストリート・オブ・ファイヤー」を観る ― 2018年07月23日 22:48
「ストリート・オブ・ファイヤー」を見る。
どういうわけだか、以前から見たいと思っていながら、なかなか間合いが合わずに見そこねている映画がかなりある。この作品もその一つ。やっと腰を据えてきちんと観ることができた。
言ってしまえば、60年台の勧善懲悪西部劇の翻案ということになる。黒澤の「用心棒」や「椿三十郎」のテイストにロードムービー的要素を入れ込み、前編クラシカル・ロックで埋めて、ド派手な爆破シーンを投入。悪党は悪党らしく、善人は善人らしいワルで、そのアウトロー的正義感に古株の因縁付きの警官さえ一目置く。そう、イーストウッドの「アウトロー」の香りもほのかに。
歌姫役のダイアン・レインの美しさがまず大きなポイント。そして、悪役として存在感十分な、まだ若くてつやつやした顔のウィレム・デフォーのほんとに悪そうな顔。ゲスで口先ばかりで嫌味でちびで、でもどことなく憎めなくて、弱いくせに鼻っ柱が強くて、すぐぶっ飛ばされるが、しぶとく生き残るニック・モラニスは、嫌な奴のはずなのに、最後にはいい男になってしまう。そして、どうしようもなく優しく、それ故ワルに落ちてしまった、そんな甘さが溢れ出しているマイケル・パレ。
今風のリアリズムであれば、拉致されて1昼夜経っているのに服も髪もきれいなままのダイアン・レインといい、せっかくさらった女を奪回されても、のんびりと構えるウィレム・デフォーといい、なんともマヌケな話だが、この映画はそんなリアリズムを求めているわけではない。言ってしまえば古き良き少年マンガそのもの。固いことを言うのはヤボ。
だが、80年台でこの作品を作ってしまったのは、少々遅かったかもしれない。ちょっとパンク風味の効いた、遅れてきた正統派少年アクションマンガと言ったところか。
ヤボは言いっこなし。重箱の隅をつつき、リアリズムの不徹底を笑うような子供っぽい突っ込みはやめて、ただただ愉しめばよい。だって、これは冒頭にもある通り「寓話」なのだから。
どういうわけだか、以前から見たいと思っていながら、なかなか間合いが合わずに見そこねている映画がかなりある。この作品もその一つ。やっと腰を据えてきちんと観ることができた。
言ってしまえば、60年台の勧善懲悪西部劇の翻案ということになる。黒澤の「用心棒」や「椿三十郎」のテイストにロードムービー的要素を入れ込み、前編クラシカル・ロックで埋めて、ド派手な爆破シーンを投入。悪党は悪党らしく、善人は善人らしいワルで、そのアウトロー的正義感に古株の因縁付きの警官さえ一目置く。そう、イーストウッドの「アウトロー」の香りもほのかに。
歌姫役のダイアン・レインの美しさがまず大きなポイント。そして、悪役として存在感十分な、まだ若くてつやつやした顔のウィレム・デフォーのほんとに悪そうな顔。ゲスで口先ばかりで嫌味でちびで、でもどことなく憎めなくて、弱いくせに鼻っ柱が強くて、すぐぶっ飛ばされるが、しぶとく生き残るニック・モラニスは、嫌な奴のはずなのに、最後にはいい男になってしまう。そして、どうしようもなく優しく、それ故ワルに落ちてしまった、そんな甘さが溢れ出しているマイケル・パレ。
今風のリアリズムであれば、拉致されて1昼夜経っているのに服も髪もきれいなままのダイアン・レインといい、せっかくさらった女を奪回されても、のんびりと構えるウィレム・デフォーといい、なんともマヌケな話だが、この映画はそんなリアリズムを求めているわけではない。言ってしまえば古き良き少年マンガそのもの。固いことを言うのはヤボ。
だが、80年台でこの作品を作ってしまったのは、少々遅かったかもしれない。ちょっとパンク風味の効いた、遅れてきた正統派少年アクションマンガと言ったところか。
ヤボは言いっこなし。重箱の隅をつつき、リアリズムの不徹底を笑うような子供っぽい突っ込みはやめて、ただただ愉しめばよい。だって、これは冒頭にもある通り「寓話」なのだから。
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