「マッドマックス」を観る2018年08月03日 22:54

 「マッドマックス」を観る。第一作目だ。

 かつての西部劇のフォーマットに実直なまでに忠実。現代ならCGやら特殊メイクやらで、下品なぐらい露悪的に描かれるバイオレンスシーンやグロテスクなシーンも、古典的な処理で描かれ、観客が与えられた断片的な映像や、肉食鳥のイメージ画像から補完しなくてはならない。何もかも見せてもらえないと理解ができないタイプの観客には、敷居が高いか、刺激がなくて退屈と感じる人もいるだろう。

 燃料危機と治安崩壊は描かれるが、後のシリーズの売りである、核戦争後のディザスター設定はない。マックスは腕利きの警官で、誰もが一目置く存在。これが出世作だったメル・ギブソンの若いこと。

 冒頭の、ナイトライダーと自称する暴走族グループの一員を追い詰めるが、かわされてしまう警官たち。そして最後に、なかなか姿を見せない謎の腕利き警官、マックス。マックスに追われ、怯えるナイトライダー。ナイトライダーは事故死するが、これが遺恨を残してしまう。

 マックスの友人グースが暴走族の手によって全身大やけどを負う。その無残な姿を見たマックスの恐怖は、変わり果てたグースというより、グースをそんな目に合わせた暴走族に、自分自身が傾いていくことへの恐怖だった。一度は警官をやめようとしたマックスが、妻子と幸せな休暇を送る。ここを間延びと取る人もいるだろうが、この部分が退屈なほど甘く幸せでないと、妻子を襲う悲劇の重さも伝わらない。まだ幼い子供を暴走族の報復で殺され、妻も重態。映像ではその姿は見えないが、シーツの下の姿は四肢がおそらく欠損、社会復帰も困難な状況だと容易に想像がつく。おそらく「死人のように立ち尽くす」マックスには、友人グースと自分の妻が重なっていたのだろう。

 そしてついに、警官のユニフォームを身に着けながら、狂気の復讐鬼となる「マッドマックス」に。オーストラリアの広大な荒野、果てしなく伸びる道での、いつ果てるともない追跡と復讐。途中策略で膝を撃たれ、満足に動けなくなったマックスは、ついにショットガンを直接暴走族の一人に叩きこみ、這いつくばりながら車に戻って追跡を続ける。撃たれた場所から車までは僅かな距離。それがマックスにとっても観客にとっても無限の彼方のように感じる。

 ラスト、復讐を終えたマックスの顔にはカタルシスのかけらもない。暴力は暴力しか生まない。暴力による報復も、失われた幸せを取り戻すことはできない。最後に残った理性も捨て、警官のユニフォームという最後の良心の象徴を身に着けたまま、リンチという悪に染まったマックスには、すでに喜びも幸せもない。

 低予算B級映画であることを逆手に取ったような、肉弾アクション、ラフな編集。これを下手というか、必然を逆手に取った巧妙さというかも、意見が別れるところだろう。「仮面ライダー」の第一話にも似たようなテイストがある。

 古典的なフォーマットは外していない。今風のお行儀の悪さもない(明らかに性的暴行を受けている被害女性がきちんと着衣している、無残な死体や負傷者を見せつけるようなことはしないなど)。だから、前述のとおり、そのフォーマットから想像力を働かせることのできない観客には、浅い理解しかできないだろう。もっとも、そんな不幸を想像することもできないほど幸せな観客が増えたということかもしれない。お作法を身につけてこの作品を見ると、この作品が持つ本当の力も伝わるだろう。

 いわれのない暴力を、自由を希求する手段として使う暴走族、それを阻止するために暴力を使う警官、理性をもって罪を裁こうとして、逆に犯罪者を野放しにしてしまう役人、そして、不毛とわかっていながら、暴力に染まり、復讐に身を置く、全てを失った男。これほど救いのない、怒りに満ちた、力のみなぎる作品は少ない。